重衡の罪と内裏女房【平維盛まんが37】南都焼討は過失か?
寿永3年2月15日、京に拘留中の平重衡は、屋島の平家陣に神器返還を促す書状を送る。南都焼討の罪と向き合う重衡。都落ちの際に離れてしまった恋人のことを思い出し…
『玉葉』寿永3年2月10日条、『平家物語』巻十より
登場人物
平重衡 たいらのしげひら
平清盛の五男。
内裏の女房
重衡様?
えーーと…
重・衡・様?
えーーと…
重・衡・様?
( ̄  ̄;)
輔子様のターンと、内裏女房の話を続けてしまった為に「重衡クソ男回」みたいになってしまいましたが、重衡の擁護はあとでします。
m(_ _)m
m(_ _)m
さて、京で拘留されている重衡のもとへ、もと従者の木工右馬允知時(むくうまのじょうともとき)が訪れます。
重衡には、都落ちの時に別れも告げず、離れてしまった恋人(内裏の女房)がいました。
知時の取次によって、重衡は、恋人との一夜の再開を果たします。
いきなり、なんの少女漫画が始まったかという感じでしたが、原文もけっこうロマンチックなんですよ。(漫画は複数の異本をチャンポンしています)
重衡には、都落ちの時に別れも告げず、離れてしまった恋人(内裏の女房)がいました。
知時の取次によって、重衡は、恋人との一夜の再開を果たします。
いきなり、なんの少女漫画が始まったかという感じでしたが、原文もけっこうロマンチックなんですよ。(漫画は複数の異本をチャンポンしています)
どうぞ!
当時、高貴な女子はひと目に触れてはいけませんからね。いいエスコートですね。
まぁっ。恋人ですものね。
(*´艸`)
(*´艸`)
しばらく泣いて落ち着いた後、重衡は、
都落ちのあと、彼女に連絡をしなかったことを詫びます。
そして…
……ん?
(・・)
おいーーーっ!!!
\(・∀・;)
これは輔子様には聞かせられねえなぁ…
( ̄  ̄*)
しかしここで理性が働く重衡様。夜道は危ないから、と彼女に早く帰るよう促します。
なんというか…
かっこいいですね!!!(チョロい)
\(〃^▽^〃)/
いやぁそれにしても、重衡様って。
\(〃^▽^〃)/
いやぁそれにしても、重衡様って。
戦場での勇姿もかっこいいし、日常での陽キャな振る舞いもかっこいいし、
プライベートでの彼氏としてもかっこいいんですね。
すげえな、この人…。
しかーし!
(・∀・;)
平安時代のこととはいえ、さすがに作者は輔子様に対して配慮がなさすぎではなかろうか…?
(TーT)
平家物語はなぜ、このタイミングでこんな話を…というのは後の項目で。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ちなみに、『平家物語』で重衡と関わった女性は、今回の内裏の女房の他にも
■鎌倉(or 伊豆)の千手前(『吾妻鏡』『平家物語』巻十)
(覚一本でははっきりわかりませんが、延慶本・長門本では一夜を共にしています。)
■池田宿の侍従(『平家物語』巻十)
(覚一本では和歌の贈答をするだけですが、南都異本では一夜を共にしています。)
■池田宿の侍従(『平家物語』巻十)
(覚一本では和歌の贈答をするだけですが、南都異本では一夜を共にしています。)
などがいます。
また、鎌倉時代成立の短編集『平家公達草紙』では、
■式子内親王の女房「中将の君」「中納言の君」
という恋人がいたことになっています。
という恋人がいたことになっています。
もちろん多くはフィクションなのでしょうが、これらの逸話が残るくらい、重衡は女性にモテたんだろうなぁ…という気はしますね。
^^;
(巻十で、重衡の前に次々と女性が登場するのには、仏教的な意味があるのですが、それは後の項目で…)
^^;
(巻十で、重衡の前に次々と女性が登場するのには、仏教的な意味があるのですが、それは後の項目で…)
重衡の容姿と性格
■重衡の容姿
ところで、重衡はイケメンイケメン言われる割に、 実は『平家物語』では維盛ほどの容姿の描写があるわけではないのですが、巻十で少し語られます。
あと、美肌だったらしい。
「重衡の雪のような肌に械め(いましめ)」
…とか、一部のオタクが喜びそうなことが書いてありますね。(口を慎め)
(原文ではまだ縛られていたと読めますが、漫画では跡にしました)重衡には武勇のイメージもありますが、やはりその容姿は貴族的な美しさだったのでしょうね。
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■重衡の性格
また、巻十では重衡の性格についても語られます。
他の作品でも。
(後世の創作物も含まれていますが)
これらの記事から浮かび上がってくる人物像は、
これらの記事から浮かび上がってくる人物像は、
よく冗談を言っては人々を笑わせていた、という明るい好青年。
特に印象的なのは、
特に印象的なのは、
■「ひとのために都合のよくなるように、気遣う」(『右京大夫集』)
■「事に触れては人になさけをかけ」(『源平盛衰記』)
■「人が歎いているとそれに気づいて慰めてあげ」(『平家公達草紙』)
■「事に触れては人になさけをかけ」(『源平盛衰記』)
■「人が歎いているとそれに気づいて慰めてあげ」(『平家公達草紙』)
という部分ですね。
重衡は陽キャではあるけれども、どうやら、ただの能天気な陽キャではなく、
重衡は陽キャではあるけれども、どうやら、ただの能天気な陽キャではなく、
その場を明るくしたり、人の心を和ませたりするための(いわば計算された公共の利としての)陽キャのようなんですよね。
……かっこよすぎないか?
(T - T)
(T - T)
重衡は、平和な時代に生まれていたら、きっと、多くの人々に愛されて、笑顔に包まれて、幸せに生きられた人だったのだろう、と思わずにはいられません。
南都焼討はなぜ起こったのか?
重衡を語る上で、避けては通れないのが、治承4年12月の南都焼討です。
南都焼討といえば、平家最大の悪業のようにいわれますが、はたしてそうなのか。そこにいたる経緯をみてみましょう。
まず、南都焼討は単発で起こったわけではなく、
【治承4年 5月】 以仁王挙兵
↓
各地で反乱勃発
↓
【10月】 富士川合戦で官軍敗退
↓
各地の反乱さらに激化
↓
【11~翌3月】 平家(官軍)による反乱軍掃討戦
(園城寺焼討、南都焼討、近江源氏追討戦、墨俣川合戦)
(園城寺焼討、南都焼討、近江源氏追討戦、墨俣川合戦)
の流れの中の掃討戦の一つです。
あまりにも被害が甚大だったために、それだけ取り上げられることが多いのです。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
『平家物語』の記述は史実と異なっていることもありますので、主に『玉葉』『山槐記』などの記述をもとに時系列で追っていきます。
■治承4年5月16日 以仁王、園城寺に逃亡。
■5月22日 南都大衆、蜂起。(『玉葉』)
摂政基通が鎮撫のために南都へ派遣した使者を、興福寺大衆が凌辱。使者の着物をはぎ、髻を切ったといいます。(『玉葉』『百錬抄』)
※平家物語では南都焼討の直前の話となっていますが、実際には5月の話
※平家物語では南都焼討の直前の話となっていますが、実際には5月の話
興福寺は藤原氏の氏寺なのに、氏長者である基通の言うことすらもはや届かない状況になっていました。
なお、このあとの公卿僉議では、
村上源氏の源通親、善勝寺流藤原氏で親平家の藤原隆季などは、官軍による即時の奈良攻めを主張し、それを左大臣経宗、右大臣兼実が制止していたほどです。(『玉葉』5月27日条)
この時点で、すでに奈良攻めの話が朝廷の僉議で出ていたこと、奈良攻めとなれば社寺が灰燼に帰す懸念に言及されていることには注目したいです。
(別に12月に突然平家がとち狂って言い出したというわけでななく)
■6月 福原遷都
福原遷都には、以仁王に加担した、園城寺・興福寺(と延暦寺の一部)から物理的に距離を置く、という目的もあり、むしろこの時点では、平家は仏教勢力との直接対決を一旦避けた、という見方もできます。
■10月 富士川合戦
まさかの官軍が敗退したことで、各地の反乱はさらに激化。
■11月 平安京に還都
清盛は、福原遷都計画を切り上げ、平安京に還都。
反乱勢力の掃討に全集中する方向に舵を切り、平家(官軍)による本気の掃討戦が始まります。
清盛は、福原遷都計画を切り上げ、平安京に還都。
反乱勢力の掃討に全集中する方向に舵を切り、平家(官軍)による本気の掃討戦が始まります。
還都は、敵対する仏教勢力との全面対決を選択した瞬間でもあったのです。
■12月 園城寺焼討
12月13日、平家は、近江源氏と組んで蜂起した園城寺を攻撃し、焼き払います。(こちらの記事)
■12月 興福寺大衆蜂起、再三の上洛の噂
12月10日 南都大衆蜂起。(『玉葉』)
12月13日、南都の衆徒が、上洛するという噂(『玉葉』)
12月14日、南都の衆徒の動きに延暦寺の一部が呼応し、六波羅に攻め入るという噂(『玉葉』)
■12月 興福寺大衆蜂起、再三の上洛の噂
12月10日 南都大衆蜂起。(『玉葉』)
12月13日、南都の衆徒が、上洛するという噂(『玉葉』)
12月14日、南都の衆徒の動きに延暦寺の一部が呼応し、六波羅に攻め入るという噂(『玉葉』)
5月~12月までの流れをみると、以仁王や園城寺の反乱、近江源氏の反乱に呼応し、興福寺内部で反平家への熱量が高まっていった様子がわかります。
治承4年12月の状況を見るに、
園城寺を焼討したあとも、近江源氏・美濃源氏は反抗を続けている、延暦寺の一部と興福寺が手を組んで、南北から六波羅に攻め入るという噂もある…
園城寺を焼討したあとも、近江源氏・美濃源氏は反抗を続けている、延暦寺の一部と興福寺が手を組んで、南北から六波羅に攻め入るという噂もある…
平家にとって、抜き差しならない緊迫した状況だったことがわかります。
こうしてついに、12月25日、重衡を大将軍とする追討使が、南都へむけて進発するのです。
※参考文献 水原一氏「『平家物語』奈良炎上の論」『延慶本平家物語考証 1』新典社、1992年
南都焼討
12月27日 別動隊の阿波重能が、泉木津で興福寺大衆と戦闘に。(『山槐記』)
12月28日 重衡の本隊が、木津・奈良坂・般若坂の防衛線を突破。大衆が立てこもる興福寺・東大寺の伽藍を巻き込んでの戦闘となりました。
『玉葉』によれば、このとき焼失した建物は
興福寺: 金堂、講堂、食堂、南円堂、北円堂、東金堂、西金堂…など多数。(ほぼ壊滅)
東大寺: 大仏殿、講堂、食堂、四面回廊…など多数。
特に創建以来の大仏まで焼け落ちたことは象徴的で、人々にあたえた衝撃も甚大でした。
なお、平家物語によれば、大仏殿に避難していた非戦闘員である学僧たちも、多数が焼討の犠牲となったといいます。
焼討の炎と煙は凄まじく、この夜、京からも南の空が赤く染まっているのが見えたといいます。(『山槐記』)
興福寺: 金堂、講堂、食堂、南円堂、北円堂、東金堂、西金堂…など多数。(ほぼ壊滅)
東大寺: 大仏殿、講堂、食堂、四面回廊…など多数。
特に創建以来の大仏まで焼け落ちたことは象徴的で、人々にあたえた衝撃も甚大でした。
なお、平家物語によれば、大仏殿に避難していた非戦闘員である学僧たちも、多数が焼討の犠牲となったといいます。
焼討の炎と煙は凄まじく、この夜、京からも南の空が赤く染まっているのが見えたといいます。(『山槐記』)
伽藍焼失は想定外か?
政権を脅かす悪僧のアジトと化していたとはいえ、
神仏がガチで信仰されていた当時、寺社を攻めることに躊躇がなかったわけではありません。
12月13日の園城寺焼討では、
焼討を実行した平盛俊は、金堂の消火につとめ、金堂の焼失は防いだといます。(『山槐記』)
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
では南都焼討のときはどうだったのでしょう。
まず、覚一本平家物語。
まず、覚一本平家物語。
覚一本では、夜になって暗くなったので、明かりをとるために民家につけた火(いわゆる大松明)が、折からの強風にあおられて、はからずも伽藍に燃え移ってしまった、という描写になっています。
次に延慶本平家物語。
延慶本では、重衡ははじめから躊躇なく焼き払うよう指示しているように読めますし、実行者である俊方も、民家ではなく「堂舎」(宗教的建物)に火をかけたとはっきり書いてありますね。
とあり、平家(官軍)がはじめから、一宗を魔滅させる覚悟で「焼き払う」つもりだったことをうかがわせています。※1
一方、興福寺の僧側も、その宗教的権威を盾にしようと、あえてわかっていて堂舎に立てこもっている(もしも本気で堂舎を護りたいなら、盾にはしない)
という指摘もあります※2
一方、興福寺の僧側も、その宗教的権威を盾にしようと、あえてわかっていて堂舎に立てこもっている(もしも本気で堂舎を護りたいなら、盾にはしない)
という指摘もあります※2
興福寺側も、平家(官軍)側も、ある程度の伽藍の被害は折り込み済みで開戦に至ったという感じだったのかもしれません。
以上のように、
●明かりを取るための火が不運にも燃え広がってしまった説
●初めから焼討をする計画だったが、あくまでも僧房(僧侶の住まい)のみ焼くつもりで、堂舎(宗教的建物)まで焼くつもりはなかったという説
●堂舎まで焼くのも想定内だったという説 ※1
いずれもあります。
真相はわかりませんが、
玉葉や延慶本を見る限り、「明かりを取るための火が延焼…」の解釈はちょっと厳しいかもしれません。
玉葉や延慶本を見る限り、「明かりを取るための火が延焼…」の解釈はちょっと厳しいかもしれません。
とはいえ、ここまで壊滅的な伽藍の破壊や、創建以来の大仏の焼失までは、重衡にとってさすがに想定を超えるものだったのではないか… とは思います。
参考文献
※1 稙田誠氏 『寺社焼き討ち』戎光祥出版、2022年
※2 水原一氏「『平家物語』奈良炎上の論」『延慶本平家物語考証 1』新典社、1992年
重衡は、南都焼討を気にしていたのか
ところで実は、意外にも、『平家物語』巻五の南都焼討の場面では、重衡の心情は一切描かれていないのですね。
その後も重衡は、(平家物語でも史実でも)
特に気にしていない(…ように見える)のです。
重衡は、南都焼討の後、悪徒30人を現地で梟首し(『玉葉』)、
翌29日には、49人の首を携えて堂々と帰京していますし、(『山槐記』)
特に気にしていない(…ように見える)のです。
重衡は、南都焼討の後、悪徒30人を現地で梟首し(『玉葉』)、
翌29日には、49人の首を携えて堂々と帰京していますし、(『山槐記』)
都落ち後も、重衡が水島合戦、室山合戦と勝ち続けるのは前述の通りです。
→こちらの記事
その姿はまさに軍神といったような気迫で、連戦連勝の快進撃を続けているのです。
はたしてこの間、重衡は、
・官軍として正当な行為をしたまで、と思っていたのか、
・内心では懊悩しつつもそうは見えないようにしていたのか、
・それとも心を滅して戦の修羅と化していたのか…
は、わかりませんが、
『平家物語』において、
重衡自身が南都焼討の罪と向き合う姿が描かれるのは、捕虜となって後からなのです。
(※ただし、巻十「内裏女房」の章では、内裏女房の回想として、都落ち以前に南都焼討の罪について悩んでいた、という重衡の姿が描かれます。)
は、わかりませんが、
『平家物語』において、
重衡自身が南都焼討の罪と向き合う姿が描かれるのは、捕虜となって後からなのです。
(※ただし、巻十「内裏女房」の章では、内裏女房の回想として、都落ち以前に南都焼討の罪について悩んでいた、という重衡の姿が描かれます。)
重衡の責任
では『平家物語』巻十で、
重衡自身は、南都焼討についての自分の責任をどうとらえていたのでしょうか。
重衡の意思で行ったことではないし、延焼も意図した結果ではない、と。
でも、一方で
大将軍だった自分が全責任を負う立場であることは素直に受け入れています。
重衡のこの姿勢は、
後に法然と面会したとき、
頼朝と面会したときの重衡の言葉でも一貫しています。
前半部分は言い訳のように聞こえなくもないですが、
結論として、
結論として、
「犯した罪は全て自分一人が受け止め、責任から逃げるつもりはない」という覚悟に至っているところは、毅然とした重衡らしい態度だと思います。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
(「火をつける指示はしていない」というのは、重衡を綺麗に保とうとする『平家物語』の意図が入っていて、前述のように、実際にはある程度の被害は折り込み済みだったのかもしれませんが、)
それでも重衡がいうように、
興福寺・東大寺の伽藍を壊滅させ、創建以来の大仏までもを焼失させてしまったことは、さすがに当初の想定を超える結果だったのではないかと思われます。
また「父の命令にしたがったまで」というのは、それはそうで。
重衡の立場では、父・清盛の意思を実行する駒となる以外の選択はなかったはず。
「平家政権」が負うべき責任と罪を、ひとりその個人に背負わされた重衡。
それは20代の一人の青年の身にはあまりにも重いものだったと言わざるを得ません。
重衡の立場では、父・清盛の意思を実行する駒となる以外の選択はなかったはず。
「平家政権」が負うべき責任と罪を、ひとりその個人に背負わされた重衡。
それは20代の一人の青年の身にはあまりにも重いものだったと言わざるを得ません。
重衡の救済
重衡は、たとえ自分の意思ではなかったとしても、南都焼討の大将軍だった自分が、社会的に全責任を負って裁かれるのは当然のことと受け容れています。
なので、
処刑されること、命を失うことについては、重衡は抗おうとはしていません。
(のちに頼朝の前でも一切の命乞いはしていません)
ただ、重衡が恐れているのは、仏敵の罪ゆえに、死後に三悪道(地獄・畜生・餓鬼)に堕ちるのではないか、という懸念です。
『平家物語』では、巻十になってはじめて、重衡が自身の罪に向き合い、恐れる姿が描写されます。
また、法然と面会した時の言葉でも、
重衡は、戦いの中で人を殺めてきたこと、とりわけ南都で寺院を焼いたこと、についての罪の深さを思い、自分がこのままでは罪業の報いからは免れないと思っています。
往生の為に寺を建てたり仏像をつくったり、写経したり念仏を唱えたりしていた当時の人にとって、それがどんなに恐ろしいことだったかは、現代人の我々の想像をはるかに超えるものだったかもしれません。
往生の為に寺を建てたり仏像をつくったり、写経したり念仏を唱えたりしていた当時の人にとって、それがどんなに恐ろしいことだったかは、現代人の我々の想像をはるかに超えるものだったかもしれません。
平家物語巻十は、死後の世界への恐怖を抱く重衡の心が、内裏女房、法然、池田宿の侍従、千手前、といった人々との出会いによって、少しずつ解きほぐれていく、重衡救済の物語なのです。
というわけで、冒頭の内裏女房へのセリフ「再びあなたに逢うためだったのだろうか」は、ただの浮気男がいう気休めの「本命はあなただよ」程度の意味ではないことがわかります。
今世への妄執を一つずつ断ち切っていくこと、それが往生に近づく道だったから、重衡は死ぬ前に、気がかりなことを少しでも清算しなければならなかった。
だから、内裏の女房と再会し、心にひっかかっていた彼女への想いを清算することは、重衡にとって自己救済への道の一段階だったのです。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
というわけで、冒頭の内裏女房へのセリフ「再びあなたに逢うためだったのだろうか」は、ただの浮気男がいう気休めの「本命はあなただよ」程度の意味ではないことがわかります。
今世への妄執を一つずつ断ち切っていくこと、それが往生に近づく道だったから、重衡は死ぬ前に、気がかりなことを少しでも清算しなければならなかった。
だから、内裏の女房と再会し、心にひっかかっていた彼女への想いを清算することは、重衡にとって自己救済への道の一段階だったのです。
大納言佐(藤原輔子)
再び登場、輔子さま。
重衡の正妻で、安徳天皇の乳母です。
乳母といっても、授乳するわけではありません。
乳母といっても、授乳するわけではありません。
当時、授乳を担当する人は別にいました。
乳母とは、養育係・後見人で、高貴な女子が務めました。
ちなみに、安徳天皇の乳母はもう一人います。
時忠妻の帥佐(藤原領子)です。
実際には、安徳天皇をメインでサポートしていたのはこの帥佐の方だったようなのですが、覚一本平家物語では、重衡の正妻という立場から、輔子を前面にだしているそうです。※1
(※1栗山圭子氏「大納言佐という人」『国語と国文学』東京大学国語国文学会 編 筑摩書房 2009年12月)
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
輔子の父は、藤原邦綱。清盛の盟友ともいうべき親平家公卿です。
憲仁親王(高倉天皇)の東宮権大夫となり、大夫・清盛のもとで親王を支え、
また高倉天皇もしばしば邦綱の邸宅に滞在するなど親密な関係を築いていました。
憲仁親王(高倉天皇)の東宮権大夫となり、大夫・清盛のもとで親王を支え、
また高倉天皇もしばしば邦綱の邸宅に滞在するなど親密な関係を築いていました。
邦綱の娘は、それぞれ、長女・成子が六条天皇の乳母に、次女・邦子は高倉天皇の乳母に、三女・輔子が安徳天皇の乳母になっています。
言仁親王(安徳天皇)の魚初・著袴の儀、では、
東宮亮・重衡が、幼い親王を抱っこして補佐する役目を務めていますが、(『玉葉』)
この魚初・著袴の儀が行われたのは、五条の邦綱邸です。
東宮亮・重衡が、幼い親王を抱っこして補佐する役目を務めていますが、(『玉葉』)
この魚初・著袴の儀が行われたのは、五条の邦綱邸です。
重衡と輔子は、夫婦であると同時に、高倉-安徳政権を支える戦友でもあった、といえるかもしれません。
『平家物語』によれば、安徳天皇の乳母だったので、重衡の生け捕りのあと、大納言佐が出家することを宗盛がゆるさなかったといいます。
『平家物語』によれば、安徳天皇の乳母だったので、重衡の生け捕りのあと、大納言佐が出家することを宗盛がゆるさなかったといいます。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
今回は重衡の女性遍歴の話をしましたが、最後の最後(処刑の直前)に重衡が会ったのは、やはり、輔子さまでした。
朽ちせぬ契り(夫婦の絆)を確信し、生まれ変わってのちの愛を誓いあう『平家物語』巻十一の名場面です。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
次回は再び、屋島の平家。どうなる和平交渉?!
一方、そのころ維盛は…
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