重衡の罪と内裏女房【平維盛まんが37】南都焼討は過失か?

寿永3年2月15日、京に拘留中の平重衡は、屋島の平家陣に神器返還を促す書状を送る。南都焼討の罪と向き合う重衡。都落ちの際に離れてしまった恋人のことを思い出し…

『玉葉』寿永3年2月10日条、『平家物語』巻十より

平重衡 南都焼討
大納言佐 藤原輔子 平家物語
大納言佐 藤原輔子 平家物語
大納言佐 藤原輔子 平家物語
平重衡 平家物語 藤原定長
平重衡 平家物語 藤原定長
平重衡 藤原輔子 平家物語
内裏女房 平家物語 巻十
内裏女房 平家物語 巻十
内裏女房 平重衡 平家物語 巻十
平重衡 内裏女房 平家物語
平重衡 内裏女房 平家物語

次回に続きます!

漫画はえこぶんこが脚色しています

◆解説目次◆ ・登場人物
・内裏の女房
・重衡の容姿と性格
・南都焼討はなぜ起こったのか
・南都焼討
・伽藍焼失は想定外か 
・重衡は、南都焼討を気にしていたのか 
・重衡の責任 
・重衡の救済 
・大納言佐(藤原輔子)

登場人物

平重衡 たいらのしげひら
平清盛の五男。

内裏の女房


重衡様?

えーーと…

重・衡・様?
( ̄  ̄;)


輔子様のターンと、内裏女房の話を続けてしまった為に「重衡クソ男回」みたいになってしまいましたが、重衡の擁護はあとでします。
m(_ _)m


さて、京で拘留されている重衡のもとへ、もと従者の木工右馬允知時(むくうまのじょうともとき)が訪れます。

重衡には、都落ちの時に別れも告げず、離れてしまった恋人(内裏の女房)がいました。
知時の取次によって、重衡は、恋人との一夜の再開を果たします。


いきなり、なんの少女漫画が始まったかという感じでしたが、原文もけっこうロマンチックなんですよ。(漫画は複数の異本をチャンポンしています)

どうぞ!

「なおりさせ給ひそ。武士共の見るが恥ずかしきに」とて、我身は顕はに居て、車の簾を打ち纏きて、

(重衡のセリフ)
「車からお降りになってはいけません。武士たちに(あなたの)姿を見られるのは恥ずかしいので」と言って、自分自身は人目にさらされるように外側に座り、車の簾を被って


『延慶本平家物語』

当時、高貴な女子はひと目に触れてはいけませんからね。いいエスコートですね。


手に手をとりくみ、かほにかほをおしあてて、しばしは物も宣はず

(重衡と内裏女房は)手に手をとりあって、顔に顔を押し当てて、しばらくは何も言えず
『覚一本平家物語』

まぁっ。恋人ですものね。
(*´艸`)


しばらく泣いて落ち着いた後、重衡は、
都落ちのあと、彼女に連絡をしなかったことを詫びます。

そして…
「軍の日は今日を限りやと、先づ御事のみこそ」

(重衡のセリフ)
「戦に出る日は、自分の命は今日限りなのではないかと思って、まず、あなたのことを思い出していた
『四部合戦状本平家物語』

……ん?
(・・)


「今生きながら執られて恥を爆すも、人に再び見参すべきにて有りしや」

(重衡のセリフ)
「今、生け捕りにされて、こうして恥をさらすことになったのも、あなたに再び逢うためだったのだろうか
『四部合戦状本平家物語』

おいーーーっ!!!
\(・∀・;) 


これは輔子様には聞かせられねえなぁ…
( ̄  ̄*)


こうして甘くせつない夜は更けていく…


しかしここで理性が働く重衡様。夜道は危ないから、と彼女に早く帰るよう促します。
「此の比は、夜深けぬれば、大路の狼藉にあんなるに、しづまらぬ先にとくとく参らせ給へ」

(重衡のセリフ)
「この頃は、夜が更けると大路の治安が乱れているようなので、寝静まる時間になる前に早くお帰りなさい」
『延慶本平家物語』


うーーーん
なんというか…

かっこいいですね!!!(チョロい)
\(〃^▽^〃)/ 
 


いやぁそれにしても、重衡様って。

戦場での勇姿もかっこいいし、日常での陽キャな振る舞いもかっこいいし、
プライベートでの彼氏としてもかっこいいんですね。

すげえな、この人…。


しかーし!
(・∀・;)


平安時代のこととはいえ、さすがに作者は輔子様に対して配慮がなさすぎではなかろうか…?
(TーT)

平家物語はなぜ、このタイミングでこんな話を…というのは後の項目で。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


ちなみに、『平家物語』で重衡と関わった女性は、今回の内裏の女房の他にも

鎌倉(or 伊豆)の千手前(『吾妻鏡』『平家物語』巻十)
(覚一本でははっきりわかりませんが、延慶本・長門本では一夜を共にしています。

池田宿の侍従(『平家物語』巻十)
(覚一本では和歌の贈答をするだけですが、南都異本では一夜を共にしています。

などがいます。


また、鎌倉時代成立の短編集『平家公達草紙』では、

式子内親王の女房「中将の君」「中納言の君

という恋人がいたことになっています。


もちろん多くはフィクションなのでしょうが、これらの逸話が残るくらい、重衡は女性にモテたんだろうなぁ…という気はしますね。
^^;

(巻十で、重衡の前に次々と女性が登場するのには、仏教的な意味があるのですが、それは後の項目で…)




重衡の容姿と性格


■重衡の容姿

ところで、重衡はイケメンイケメン言われる割に、 実は『平家物語』では維盛ほどの容姿の描写があるわけではないのですが、巻十で少し語られます。

見目心地もきらきらしかりければ、情けをかけぬ人もなかしりしに

(重衡は)容姿や雰囲気が素晴らしく輝いていたので、誰もが愛さずにはいられなかったのに
『長門本平家物語』

あと、美肌だったらしい。
雪の様なる御膚へに械めのつきたりけるを女房見給ひて、

(重衡の)雪のような肌に械め
(拘束具)がついていたのを女房は御覧になって、
『延慶本平家物語』

「重衡の雪のような肌に械め(いましめ)」
…とか、一部のオタクが喜びそうなことが書いてありますね。(口を慎め)

(原文ではまだ縛られていたと読めますが、漫画では跡にしました)

重衡には武勇のイメージもありますが、やはりその容姿は貴族的な美しさだったのでしょうね。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

■重衡の性格

また、巻十では重衡の性格についても語られます。

口をかしき事など云ひ置き給ひて、人にも忍ばれ給ひし物を

面白いことなどおっしゃって、人にも慕われていた方なのに
『延慶本平家物語』

事に触て人に情を懸、万に甲斐々々敷はなやかなりし人ぞかし

事に触れては人に情けをかけ、何事にも頼もしく華やかな人だったなぁ
『源平盛衰記』


他の作品でも。
をかしきことをいひ、またはかなきことにも、人のためは便宜に心しらひありなどして、ありがたかりしを冗談をいい、

冗談をいい
、またちょっとしたことでも、他人の為に都合のいいように心遣いをしてくだって、めったにないいい人だったのに
『建礼門院右京大夫集』

人の歎くことなどおしはかり、宥め申しなどしければ、(中略)はなばなをかしきことをいひて、人笑はせなどしける

他人が嘆いているとそれに気づいて、
慰めてあげるなどしていたが、(中略)一方では明るく面白いことなどを言って人を笑わせたりしていた
『平家公達草紙』


(後世の創作物も含まれていますが)
これらの記事から浮かび上がってくる人物像は、
よく冗談を言っては人々を笑わせていた、という明るい好青年。


特に印象的なのは、

ひとのために都合のよくなるように、気遣う」(『右京大夫集』)
「事に触れては人になさけをかけ(『源平盛衰記』)
「人が歎いているとそれに気づいて慰めてあげ(『平家公達草紙』)
という部分ですね。

重衡は陽キャではあるけれども、どうやら、ただの能天気な陽キャではなく、
その場を明るくしたり、人の心を和ませたりするための(いわば計算された公共の利としての)陽キャのようなんですよね。


……かっこよすぎないか?
(T - T)


重衡は、平和な時代に生まれていたら、きっと、多くの人々に愛されて、笑顔に包まれて、幸せに生きられた人だったのだろう、と思わずにはいられません。


南都焼討はなぜ起こったのか?

重衡を語る上で、避けては通れないのが、治承4年12月の南都焼討です。

南都焼討といえば、平家最大の悪業のようにいわれますが、はたしてそうなのか。
そこにいたる経緯をみてみましょう。

まず、南都焼討は単発で起こったわけではなく、

 【治承4年 5月】 以仁王挙兵
   ↓
  各地で反乱勃発
  ↓ 
 【10月】 富士川合戦で官軍敗退
  ↓
  各地の反乱さらに激化
  ↓
 【11~翌3月】 平家(官軍)による反乱軍掃討戦
   (園城寺焼討、南都焼討、近江源氏追討戦、墨俣川合戦)

の流れの中の掃討戦の一つです。
あまりにも被害が甚大だったために、それだけ取り上げられることが多いのです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

『平家物語』の記述は史実と異なっていることもありますので、主に『玉葉』『山槐記』などの記述をもとに時系列で追っていきます。


まず話は、治承4年5月の以仁王挙兵までさかのぼります。

■治承4年5月16日 以仁王、園城寺に逃亡

■5月22日 南都大衆、蜂起(『玉葉』)

(なお、以仁王が宇治で討たれたとき、園城寺を出て南へ逃れようとしていたのは、南都の興福寺を頼って匿ってもらおうとしていたからです。)こちらの記事


■5月 摂政使凌辱事件

摂政基通が鎮撫のために南都へ派遣した使者を、興福寺大衆が凌辱。使者の着物をはぎ、髻を切ったといいます。(『玉葉』『百錬抄』)
※平家物語では南都焼討の直前の話となっていますが、実際には5月の話

興福寺は藤原氏の氏寺なのに、氏長者である基通の言うことすらもはや届かない状況になっていました。

なお、このあとの公卿僉議では、
村上源氏の源通親、善勝寺流藤原氏で親平家の藤原隆季などは、官軍による即時の奈良攻めを主張し、それを左大臣経宗、右大臣兼実が制止していたほどです。(『玉葉』5月27日条)

この時点で、すでに奈良攻めの話が朝廷の僉議で出ていたこと、奈良攻めとなれば社寺が灰燼に帰す懸念に言及されていることには注目したいです。
(別に12月に突然平家がとち狂って言い出したというわけでななく)


■6月 福原遷都
福原遷都には、以仁王に加担した、園城寺・興福寺(と延暦寺の一部)から物理的に距離を置く、という目的もあり、むしろこの時点では、平家は仏教勢力との直接対決を一旦避けた、という見方もできます。

■10月 富士川合戦
まさかの官軍が敗退したことで、各地の反乱はさらに激化。

■11月 平安京に還都
清盛は、福原遷都計画を切り上げ、平安京に還都。
反乱勢力の掃討に全集中する方向に舵を切り、平家(官軍)による本気の掃討戦が始まります。
還都は、敵対する仏教勢力との全面対決を選択した瞬間でもあったのです。


■12月 園城寺焼討
12月13日、平家は、近江源氏と組んで蜂起した園城寺を攻撃し、焼き払います。こちらの記事)


■12月 興福寺大衆蜂起、再三の上洛の噂

12月10日 南都大衆蜂起(『玉葉』)
12月13日、南都の衆徒が、上洛するという噂(『玉葉』)
12月14日、南都の衆徒の動きに延暦寺の一部が呼応し、六波羅に攻め入るという噂(『玉葉』)


5月~12月までの流れをみると、以仁王園城寺の反乱、近江源氏の反乱に呼応し、興福寺内部で反平家への熱量が高まっていった様子がわかります。

治承4年12月の状況を見るに、
園城寺を焼討したあとも、近江源氏・美濃源氏は反抗を続けている、延暦寺の一部と興福寺が手を組んで、南北から六波羅に攻め入るという噂もある… 

平家にとって、抜き差しならない緊迫した状況だったことがわかります。


こうしてついに、12月25日重衡を大将軍とする追討使が、南都へむけて進発するのです。

(ちなみに、同日、維盛は、近江源氏と戦う知盛・資盛軍の援軍として、近江に向かって京を進発しています。平家の総力をあげた掃討戦だったのですね)こちらの記事



※参考文献 水原一氏「『平家物語』奈良炎上の論」『延慶本平家物語考証 1』新典社、1992年

南都焼討

12月25日 重衡は数千騎を率いて南都へ進発します。(『山槐記』『玉葉』)

12月27日 別動隊の阿波重能が、泉木津で興福寺大衆と戦闘に。(『山槐記』)

12月28日 重衡の本隊が、木津・奈良坂・般若坂の防衛線を突破。大衆が立てこもる興福寺・東大寺の伽藍を巻き込んでの戦闘となりました。


『玉葉』によれば、このとき焼失した建物は
興福寺: 金堂、講堂、食堂、南円堂、北円堂、東金堂、西金堂…など多数。(ほぼ壊滅)
東大寺: 大仏殿、講堂、食堂、四面回廊…など多数。


特に創建以来の大仏まで焼け落ちたことは象徴的で、人々にあたえた衝撃も甚大でした。

なお、平家物語によれば、大仏殿に避難していた非戦闘員である学僧たちも、多数が焼討の犠牲となったといいます。


焼討の炎と煙は凄まじく、この夜、京からも南の空が赤く染まっているのが見えたといいます。(『山槐記』)


伽藍焼失は想定外か?


政権を脅かす悪僧のアジトと化していたとはいえ、
神仏がガチで信仰されていた当時、寺社を攻めることに躊躇がなかったわけではありません。

12月13日の園城寺焼討では、
焼討を実行した平盛俊は、金堂の消火につとめ、金堂の焼失は防いだといます。(『山槐記』)

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

では南都焼討のときはどうだったのでしょう。

まず、覚一本平家物語。

夜いくさになッて、くさはくらし、大将軍頭の中将、般若寺の門の前にうッたッて、「火をいだせ」と宣ふ程こそありけれ、平家の勢のなかに、播磨国住人、福井庄下司、二郎大夫友方といふ者、楯をわり、たい松にして、在家に火をぞかけたりける。十二月廿八日の夜なりければ、風ははげしし、ほもとは一つなりけれども、吹きまよふ風に、おほくの伽藍に吹きかけたり。

夜の戦いになって、すっかり暗くなったので、大将軍頭中将重衡は、般若寺の門前に立って、「火をつけよ」と命じられると、ただちに平家の軍勢のなかの播磨国住人、福井庄下司、二郎大夫友方というものが、楯を割って松明にし、あたりの民家に火をかけた。十二月二十八日の夜だったので、風は激しく、火元は一か所だったけれど、吹きすさぶ風にあおられて、多くの伽藍に炎を吹きかけていった。


覚一本では、夜になって暗くなったので、明かりをとるために民家につけた火(いわゆる大松明)が、折からの強風にあおられて、はからずも伽藍に燃え移ってしまった、という描写になっています。



次に延慶本平家物語。

重衡朝臣は、法華寺の鳥居の前に打ち立ちて、次第に南都を焼き払ふ。軍兵の中に、播磨国福井下司、次郎大夫俊方と云ひける者、楯を破りて続松にして、両方の城をはじめとして寺中に打ち入りて、敵の籠りたる堂舎坊中に火をかけて、是を焼く。

重衡朝臣は、法華寺の鳥居の前に立って、次第に南都を焼き払う。軍兵の中に、播磨国福井下司、次郎大夫俊方という者が、楯を割って松明にして、両城をはじめとして、寺中に入って、敵の籠っている堂舎坊中に火をかけて、これを焼く


延慶本では、重衡ははじめから躊躇なく焼き払うよう指示しているように読めますし、実行者である俊方も、民家ではなく「堂舎」(宗教的建物)に火をかけたとはっきり書いてありますね。


当時の日記である『玉葉』にも、南都焼討の直前の記事に

伝聞、来廿五日遣官軍於南都、捕搦悪徒、焼払房舎、可魔滅一宗云々

伝え聞いたところでは、来る二十五日、官軍を南都に派遣し、悪徒を搦め捕り、房舎を焼き払い、一宗を魔滅させるつもりであるという。
『玉葉』治承4年12月22日条

とあり、平家(官軍)がはじめから、一宗を魔滅させる覚悟で「焼き払う」つもりだったことをうかがわせています。※1


一方、興福寺の僧側も、その宗教的権威を盾にしようと、あえてわかっていて堂舎に立てこもっている(もしも本気で堂舎を護りたいなら、盾にはしない)
という指摘もあります※2

興福寺側も、平家(官軍)側も、ある程度の伽藍の被害は折り込み済みで開戦に至ったという感じだったのかもしれません。


以上のように、

明かりを取るための火が不運にも燃え広がってしまった説

初めから焼討をする計画だったが、あくまでも僧房(僧侶の住まい)のみ焼くつもりで、堂舎(宗教的建物)まで焼くつもりはなかったという説

堂舎まで焼くのも想定内だったという説 ※1

いずれもあります。


真相はわかりませんが、
玉葉や延慶本を見る限り、「明かりを取るための火が延焼…」の解釈はちょっと厳しいかもしれません。

とはいえ、ここまで壊滅的な伽藍の破壊や、創建以来の大仏の焼失までは、重衡にとってさすがに想定を超えるものだったのではないか… とは思います。

参考文献
※1  稙田誠氏 『寺社焼き討ち』戎光祥出版、2022年
※2 水原一氏「『平家物語』奈良炎上の論」『延慶本平家物語考証 1』新典社、1992年


重衡は、南都焼討を気にしていたのか


ところで実は、意外にも、『平家物語』巻五の南都焼討の場面では、重衡の心情は一切描かれていないのですね。

その後も重衡は、(平家物語でも史実でも)
特に気にしていない(…ように見える)のです。

重衡は、南都焼討の後、悪徒30人を現地で梟首し(『玉葉』)
翌29日には、49人の首を携えて堂々と帰京していますし、(『山槐記』)

南都焼討の二か月後には、近江・美濃の前線を護る兄・知盛と交替し、
美濃・墨俣川の戦いで、重衡は圧倒的な強さで200人以上の首級をあげています。(『吉記』)
 こちらの記事

都落ち後も、重衡が水島合戦室山合戦と勝ち続けるのは前述の通りです。
 →こちらの記事


その姿はまさに軍神といったような気迫で、連戦連勝の快進撃を続けているのです。

はたしてこの間、重衡は、
・官軍として正当な行為をしたまで、と思っていたのか、
・内心では懊悩しつつもそうは見えないようにしていたのか、
・それとも心を滅して戦の修羅と化していたのか…

は、わかりませんが、

『平家物語』において、
重衡自身が南都焼討の罪と向き合う姿が描かれるのは、捕虜となって後からなのです。

(※ただし、巻十「内裏女房」の章では、内裏女房の回想として、都落ち以前に南都焼討の罪について悩んでいた、という重衡の姿が描かれます。)


重衡の責任

では『平家物語』巻十で、
重衡自身は、南都焼討についての自分の責任をどうとらえていたのでしょうか。


「我が心にも発らず、焼けとも云はざりしかども、多勢なりしかば、心ならず火を出したれば、多くの伽藍滅び給ひぬ。」

(内裏の女房に語った重衡のセリフ)
「自分の意思ではなく焼けとも言っていないが、敵が多勢だったので、やむをえず火をつけたところ、多くの伽藍が焼失してしまった。」
(『延慶本平家物語』)

重衡の意思で行ったことではないし、延焼も意図した結果ではない、と。


でも、一方で
「末の露、本のしづくなれば、誠に我が罪にこそならむずらめ」

(重衡のセリフ)
「葉末の雫が集って幹の雫となるというように、(配下が起こしたことであっても)大将軍の私の罪になるであろう」
(『延慶本平家物語』)

大将軍だった自分が全責任を負う立場であることは素直に受け入れています。


重衡のこの姿勢は、
後に法然と面会したとき、
頼朝と面会したときの重衡の言葉でも一貫しています。

南都炎上の事、王宣と云ひ父命と申し、世に随ふ道、遁れ難くして、衆徒の悪行を鎮めんが為に罷り向かひて候ひし程に、不慮に伽藍滅亡に及びし事、力及ばざる次第にて候へども、大将軍を勤め候ひし上は、責め一人に帰すとかや申すことなれば、重衡が罪業に成り候ひぬと覚え候ふ。

(法然に語った重衡の言葉)
「南都炎上のことは、勅命であり、父命であり、世に従う立場にある身としては逃れることができず、衆徒の悪行を鎮めるために立ち向かいましたところ、思いがけなく伽藍の焼失に及んでしまいました。仕方なかったことではあるけれども、大将軍を務めていた以上は、責任は私一人に帰すということですから、重衡の罪業になったと思っております。」

『延慶本平家物語』


前半部分は言い訳のように聞こえなくもないですが、
結論として、
「犯した罪は全て自分一人が受け止め、責任から逃げるつもりはない」という覚悟に至っているところは、毅然とした重衡らしい態度だと思います。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

(「火をつける指示はしていない」というのは、重衡を綺麗に保とうとする『平家物語』の意図が入っていて、前述のように、実際にはある程度の被害は折り込み済みだったのかもしれませんが、)

それでも重衡がいうように、
興福寺・東大寺の伽藍を壊滅させ、創建以来の大仏までもを焼失させてしまったことは、さすがに当初の想定を超える結果だったのではないかと思われます。

また「父の命令にしたがったまで」というのは、それはそうで。
重衡の立場では、父・清盛の意思を実行する駒となる以外の選択はなかったはず。


「平家政権」が負うべき責任と罪を、ひとりその個人に背負わされた重衡。
それは20代の一人の青年の身にはあまりにも重いものだったと言わざるを得ません。




重衡の救済


重衡は、たとえ自分の意思ではなかったとしても、南都焼討の大将軍だった自分が、社会的に全責任を負って裁かれるのは当然のことと受け容れています。

なので、
処刑されること、命を失うことについては、重衡は抗おうとはしていません。
(のちに頼朝の前でも一切の命乞いはしていません)

ただ、重衡が恐れているのは、仏敵の罪ゆえに、死後に三悪道(地獄・畜生・餓鬼)に堕ちるのではないか、という懸念です。

『平家物語』では、巻十になってはじめて、重衡が自身の罪に向き合い、恐れる姿が描写されます。

院御所より御使に蔵人左衛門権佐定長、八条堀河へむかはれけり。赤衣にて剣笏をぞ帯したりける。(中略)日頃は何とも思はれざりし定長を、今は冥途にて罪人共が冥官にあへる心地ぞせられける。

院御所から御使いとして蔵人左衛門佐定長が、八条堀河へ向かわれた。赤衣に剣・笏を帯していた。日頃は気にもかけなかった定長だったが、重衡は、今は冥途で罪人どもが冥官に会ったような気持ちになられた。
(『覚一本平家物語』)

重衡の尋問役として派遣された藤原定長(詳細は前回が、赤い衣(五位の緋袍)を着て剣・笏を帯していたので、その姿がまるで冥官(閻魔庁の役人)のと重なって見えたというのです。

 
また、法然と面会した時の言葉でも、
倩一生の化行を思ふに、罪業は須弥よりも高く、善根は微塵ばかりも蓄へなし。かくてむなしく命終りなば、火血刀の苦果あへて疑ひなし。

(重衡が法然に語った内容)
よくよく一生の行為を顧りみますと、罪業は須弥山よりも高く、善業は微塵も積んでおりません。このままむなしく命が終わったならば、
火血刀(地獄・畜生・餓鬼の三悪道)の苦しみを受けることに疑いありません
(『覚一本平家物語』)

重衡は、戦いの中で人を殺めてきたこと、とりわけ南都で寺院を焼いたこと、についての罪の深さを思い、自分がこのままでは罪業の報いからは免れないと思っています。

往生の為に寺を建てたり仏像をつくったり、写経したり念仏を唱えたりしていた当時の人にとって、それがどんなに恐ろしいことだったかは、現代人の我々の想像をはるかに超えるものだったかもしれません。


平家物語巻十は、死後の世界への恐怖を抱く重衡の心が、内裏女房法然池田宿の侍従千手前、といった人々との出会いによって、少しずつ解きほぐれていく、重衡救済の物語なのです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

というわけで、冒頭の内裏女房へのセリフ「再びあなたに逢うためだったのだろうか」は、ただの浮気男がいう気休めの「本命はあなただよ」程度の意味ではないことがわかります。

今世への妄執を一つずつ断ち切っていくこと、それが往生に近づく道だったから、重衡は死ぬ前に、気がかりなことを少しでも清算しなければならなかった。

だから、内裏の女房と再会し、心にひっかかっていた彼女への想いを清算することは、重衡にとって自己救済への道の一段階だったのです。



大納言佐(藤原輔子)


再び登場、輔子さま

重衡の正妻で、安徳天皇の乳母です。

乳母といっても、授乳するわけではありません。
当時、授乳を担当する人は別にいました。

乳母とは、養育係・後見人で、高貴な女子が務めました。

ちなみに、安徳天皇の乳母はもう一人います。
時忠妻の帥佐(藤原領子)です。

実際には、安徳天皇をメインでサポートしていたのはこの帥佐の方だったようなのですが、覚一本平家物語では、重衡の正妻という立場から、輔子を前面にだしているそうです。※1 
(※1栗山圭子氏「大納言佐という人」『国語と国文学』東京大学国語国文学会 編 筑摩書房 2009年12月)

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

輔子の父は、藤原邦綱。清盛の盟友ともいうべき親平家公卿です。

憲仁親王(高倉天皇)の東宮権大夫となり、大夫・清盛のもとで親王を支え、
また高倉天皇もしばしば邦綱の邸宅に滞在するなど親密な関係を築いていました。

邦綱の娘は、それぞれ、長女・成子六条天皇の乳母に、次女・邦子高倉天皇の乳母に、三女・輔子安徳天皇の乳母になっています。

言仁親王(安徳天皇)の魚初・著袴の儀、では、
東宮亮・重衡が、幼い親王を抱っこして補佐する役目を務めていますが、(『玉葉』)
この魚初・著袴の儀が行われたのは、五条の邦綱邸です。

重衡と輔子は、夫婦であると同時に、高倉-安徳政権を支える戦友でもあった、といえるかもしれません。

『平家物語』によれば、安徳天皇の乳母だったので、重衡の生け捕りのあと、大納言佐が出家することを宗盛がゆるさなかったといいます。




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

今回は重衡の女性遍歴の話をしましたが、最後の最後(処刑の直前)に重衡が会ったのは、やはり、輔子さまでした。
朽ちせぬ契り(夫婦の絆)を確信し、生まれ変わってのちの愛を誓いあう『平家物語』巻十一の名場面です。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

次回は再び、屋島の平家。どうなる和平交渉?!
一方、そのころ維盛は…


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※出典・参考文献/『玉葉』国書刊行会/『吾妻鏡』新訂増補国史大系、吉川弘文館/早川厚一氏・佐伯真一氏・生形貴重氏校注『四部合戦状本平家物語全釈』和泉書院/福田豊彦氏・服部幸造氏『源平闘諍録全注釈』講談社/『長門本平家物語』国書刊行会/『延慶本平家物語全注釈』汲古書院/『屋代本高野本対照平家物語』新典社/『源平盛衰記』中世の文学、三弥井書店/『平家物語』新日本古典文学大系、岩波書店/『平家物語』新編日本古典文学全集、小学館/『平家物語大事典』東京書籍/『平家物語研究事典』明治書院/『平家物語図典』小学館/冨倉徳次郎氏『平家物語全注釈』角川書店/杉本圭三郎氏『平家物語全訳注』講談社/ →その他参考文献、発行年等詳細はこちら

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■1【一四歳】武器は作法と己の美貌!|玉葉
■2【一八歳】美しすぎる青海波舞!|平家物語
■3【一九歳】唯一の弱点?|建礼門院右京大夫集
■4【二一歳】無文の太刀と重盛の病|平家物語
■5【二一歳】熊野詣と重盛の他界|平家物語
■6【二二歳】以仁王の挙兵|玉葉
■7【二二歳】富士川の戦い-前|山槐記・玉葉
■8【二二歳】富士川の戦い-中|山槐記・玉葉
■9【二二歳】富士川の戦い-後|山槐記・玉葉
■10【二二歳】近江の戦い|玉葉
■11【二三歳】墨俣川の戦い|玉葉・吉記
■12【二五歳】倶利伽羅峠の戦い-前|平家物語
■13【二五歳】倶利伽羅峠の戦い-後|源平盛衰記
■14【二五歳】篠原の戦いと山門連署|平家物語
■15【二五歳】最後の京都防衛戦線|吉記
■16【二五歳】都落ち[資盛と後白河院]|愚管抄
■17【二五歳】都落ち[忠清と貞能]|平家物語
■18【二五歳】都落ち[維盛と新大納言]|平家物語
■19【二五歳】福原落ち-前編|平家物語
■20【二五歳】福原落ち-後編|平家物語
■21【二五歳】大宰府、月夜の歌会|平家物語
■22【二五歳】大宰府落ち-前編|平家物語
■23【二五歳】大宰府落ち-後編|平家物語
■24【二五歳】貞能の離脱|吾妻鏡
■25【二五歳】水島の戦い|源平盛衰記
■26【二六歳】木曽義仲との和平交渉|玉葉
■27【二六歳】福原奪還と維盛の病|平家物語
■28【二六歳】三草山の戦い-前編|平家物語
■29【二六歳】三草山の戦い-後編|平家物語
■30【二六歳】一の谷(1)生田森攻防|平家物語
■31【二六歳】一の谷(2)通盛最期|源平盛衰記
■32【二六歳】一の谷(3)業盛・師盛|平家物語
■33【二六歳】一の谷(4)忠度・経正|平家物語
■34【二六歳】一の谷(5)知章の最期|平家物語
■35【二六歳】重衡の生け捕り|平家物語
■36【二六歳】首渡しと小宰相身投|平家物語
■37【二六歳】重衡の罪と内裏女房|平家物語




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