京都防衛戦線!(後白河院と資盛と宗盛の関係)【平維盛まんが 15】『吉記』
京都の四方の護りにつく平家。宇治に向かった資盛のもとに届いたのは…
<『吉記』寿永二年七月二十四日条より>
※漫画はえこぶんこが脚色しています。
登場人物
後白河法皇 ごしらかわほうおう第77代天皇。
平資盛 たいらのすけもり
平清盛の長男[重盛]の次男。維盛の弟。
平貞能 たいらのさだよし
清盛、重盛、資盛の家人。
立場を失う維盛
倶利伽羅峠・篠原の戦いを最後に、維盛の名は表舞台から消えます。
今後、後白河院との接触を試みるのも、大宰府で緒方惟義と交渉するのも、三草山の戦いで大将軍になるのも、全て弟の資盛です。
※三草山の戦いはこちら
維盛自身、敗戦の責任を感じていたのかもしれませんし、
自分を捨て駒のように扱う平家主流の人々に不信感を抱いていたのかもしれません。
また、忠清などの有力郎等が離脱した結果(この話は次々回)、維盛ひとりではできることがもうなかったのかもしれません。
いずれにしても、政治的に維盛が表舞台に出てくることはもうありません。
ですが、面白いことに、ここから逆に『平家物語』では維盛の出番が増えるのです。
妻子との別れ、妻子を想う苦悩、屋島脱走、高野詣、熊野詣、那智沖での入水。
ここからが、悲劇の貴公子・維盛の本領発揮(?)なのです。
資盛と後白河院の関係
この頃は、維盛の失墜とは逆に、資盛の果たす役割がとても重要になっていきます。
前作えこぶんこ1でも何度か触れましたが、平家の中でも資盛は、特別、後白河院に重用されていました。
二人の密接な関係を暗示する逸話をどうぞ。
■その1
後白河院が六波羅へ内密の御幸したとき、御供をしていたのが親宗と資盛だけだったという話。親宗というのは、院近臣の平親宗のことで、時忠・時子の弟ですが、治承三年の政変でも解官対象になったくらいの後白河院寄りの人物です。
その親宗と同列に資盛が扱われていることから、後白河院の資盛への信頼の厚さがわかります。
資盛の夢想によって、般若心経を千巻供養したという話。
夢想とは夢占いのようなもの。平安時代独特の感性だな、という逸話ですが、般若心経千巻供養って結構大変な事業じゃないですか?
それを資盛の夢想を理由に実行してしまうほど、かなり信頼されてたということですね。
慈円にも『愚管抄』で「院ノオボエシテサカリニ候ケレバ」(院に可愛がられて、勢いが盛んだったので)などと書かれていることから、この二人の間に男色関係があったという説もあります。
とはいえ、近衛基通のように『玉葉』にそういう関係が明記されているとかではないので…(この話は次回)。まぁ…ご想像にお任せします、といったところでしょうか。
ここでは、政治的・軍事的にお互い利益があったことに注目したいと思います。
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後白河院にとっては、(もちろん資盛個人の人柄も気に入っていたんでしょうが)、資盛(と配下の貞能)が持つ軍事力には価値がありました。
院には、警護にあたる北面の武士という組織も存在しましたが(そもそも平正盛が北面の武士として白河法皇に仕えたことから平家は発展)、
やはり資盛のような、戦闘力の高い武士団を率いる軍事貴族を親衛軍として配下につけておくことは、この大戦争時においては有益だったと思われます。
一方、資盛の方にも、後白河院に取り入るメリットが大いにありました。
以前の記事にあったように、小松家の中では維盛、清経に官位で後れをとっていた資盛でしたが、治承四年頃から一気に追い上げを見せ、清経の位階を抜いて、最終的には従三位まで昇進し、公卿に名を連ねているのです。
これは、後白河院に資盛が近習として重用されるようになった時期と重なります。
平家政権は、治承三年のクーデターで一度は後白河院政を否定しましたが、治承四年(1180)高倉上皇が崩御して後は、復帰した後白河院と連携を取らざるを得なくなります。
こうして、治承四年~都落ち直前にかけて、平家の中でも、後白河院の寵愛を受ける資盛の果たす役割は、とても大きくなっていくのです。
資盛の人脈(資盛の正妻)
資盛が小松家の中でも独自の動きができた理由…それには彼のバックにある持明院家の存在も関わってきます。
資盛は藤原基家の娘を正妻にしています。
藤原基家は、守貞親王(高倉天皇第二皇子)の乳母夫であり、『平家物語』(巻十一)の守貞親王帰還の記事に「御めのと持明院の宰相」として登場する人物です。
持明院というのは、基家の祖父・基頼が一条室町の北に設けた広大な邸宅のこと。基家は、父・通基が邸内に建立した持仏堂の名をとって「持明院」を家号としました。
持明院というのは、基家の祖父・基頼が一条室町の北に設けた広大な邸宅のこと。基家は、父・通基が邸内に建立した持仏堂の名をとって「持明院」を家号としました。
(鎌倉後期~南北朝時代の皇統、持明院統の名の由来となるあの持明院です)
基家の女婿である資盛は、当時の史料では「持明院少将」「持明院三位中将」という名で記されています。
資盛、持明院家の人認識ですね。
持明院家との姻戚関係を持つ資盛は、小松家の中でも特殊な人脈を築くことになります。
(父(重盛)、兄(維盛)、弟(清経)が、鹿ケ谷事件で処刑された藤原成親と姻戚関係を持っていたのに対し、資盛はこのネットワークからは外れています。)
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また、藤原基家は、平頼盛の女婿でもあります。
平頼盛(清盛の弟)も、平家の中ではかなり特殊な立ち位置にある人物です。
頼盛は、八条院(鳥羽院と美福門院の子・暲子内親王)の別当を務め、八条院や院近臣とも交流し、独自の人脈を持っていました。
治承三年のクーデターでは、平家一門でありながら頼盛の右衛門督が解官対象になっているほどです。
こういった経緯から、清盛の没後には、「頼盛が比叡山の僧徒と共謀して宗盛を夜討ちにする」という噂までたった(『玉葉』)というほど、いつ平家を裏切るかわからない、と思われていた節があります。
(ただ頼盛自身にそこまでの意思はなく、自邸を御所として差し出す等、平家政権に協力をしています。)
また、頼盛の母(藤原宗子・池禅尼)はかつて平治の乱の折に頼朝の助命に一役買っており、頼盛自身も八条院と親しい縁があることから、頼盛には鎌倉方へのパイプがないわけでもないのです。
こうした縁から、頼盛も資盛も、平家主流とは違う独自の人脈を持っていて、宗盛たちの平家主流から離反するかもしれない要素は十分あったことになります。
(『平家物語』の中でも、宗盛から裏切りを疑われる描写が度々出てきます)
次回書きますが、実際、資盛は都落ちのとき頼盛と行動をともにし、最終的に頼盛は鎌倉方への帰降に成功しているので、資盛だって場合によっては、助かる道があったかもしれない、と思えてきますね。
京都防衛戦線
寿永二年(1183)7月10日、木曽義仲は近江勢多まで進軍。
脅威は義仲だけではありません。
時を同じくして、7月13日には、丹波に矢田義清、14日には伊賀に源行家、大和に源信親が。
また、平家側についていた多田行綱が離反し、摂津河尻の船を奪って、都へ入る物資を差し押さえる動きを見せました。
平家は、兵を四方に分散させて、最後の防衛にあたります。
7月21日宇治方面に資盛と貞能、
7月22日勢多方面に知盛・重衡、頼盛、
丹波方面には忠度が出陣しました。
いずれも平家は二千騎以下の小隊で、小競り合いで時間を稼いだにすぎません。
また、行綱に河尻を奪われたことによって、京に留まっていてもいずれ物資が枯渇してしまうことは明らかでした。
こうして、宗盛は都を一旦離れる決断をし、各地に出兵していた平家一門を呼び戻すことになります。
資盛と宗盛
7月23日頃、出兵していた資盛も、都へ戻ってくるよう促されます。
この頃の資盛は、後白河院の直属軍のような立ち位置だったようで、それを示唆する宗盛の言葉が、『吉記』にあります。
各方面から京への引き揚げの指示について、宗盛は、「資盛に関しては、後白河院から指示があるのが妥当、自余の輩は自分から指示を出す」と言っています。
宗盛のこの言葉には二通りの解釈があります。
【1】「自余の輩」が資盛・貞能以外の平家一門を指す解釈
→院宣を承っていた資盛・貞能は、他の平家一門とは全く違う指示系統で動いており、宗盛もそういう認識でいた。
【2】「自余の輩」が貞能を指す解釈
→「資盛はともかく、貞能は平家の郎等であるから、後白河院に貞能の動きまで指示される筋合いはない」という宗盛の苦言ととれる。
【1】【2】で、若干意味合いが変わってきますが、いずれにしても、後白河院が、資盛と貞能の軍を、自分の指示で動かせる配下として認識していたことがわかります。
(漫画では前者寄りの解釈をとりました。その方が面白いので^^;)
※参考文献 髙橋昌明氏『平家の群像』(岩波新書)岩波書店、2009年
うーーーん…
こうして見てくると、
「資盛さん……、宗盛達と一緒に都落ちするの?できるの?」
って思ってしまいますね。
(まぁこの時点では、後白河院が脱出するとは思ってないから…)
というわけで、次回は『愚管抄』より平家都落ち。
『建礼門院右京大夫集』のしおらしい資盛の都落ちとはまた違う、結構バタバタする都落ちですよ。
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次回、平家都落ち。【寿永二年 維盛二十五歳】
待って、後白河院!
次回更新は、七月中~下旬の予定です。

