一の谷の戦い(4)平忠度、平経正の最期【平維盛まんが33】



平忠度が守備していた西の木戸口・一の谷は、義経軍の攻撃によって陥落。武蔵国住人・岡部六弥太と組み合った忠度は、相手に重症を負わせるまで追い詰めるも、六弥太の郎等に右腕を斬り落とされてしまう。敵に追いかけられた平経正は、逃げきろうとするが…


<『平家物語』巻九、『源平盛衰記』巻三十六より>
平家物語、平忠度、岡部六弥太
平家物語、平忠度、岡部六弥太
平家物語、平忠度、岡部六弥太
平家物語、平忠度、岡部六弥太、忠度の最期
平家物語、平忠度、岡部六弥太、忠度の最期
平家物語、平忠度、岡部六弥太、忠度の最期
平家物語、平経正
平家物語、平経正、青山の琵琶
平家物語、平経正、青山の琵琶
平家物語、平経正、青山の琵琶
平家物語、平経正、平忠度、経正集、忠度集

※漫画はえこぶんこが脚色しています。  

◆解説目次◆ ・登場人物
・真・一の谷の戦い
・平忠度
・味方と言ったのは…
・忠度の最期
・花や今宵のあるじならまし 
・平経正 
・逃ぐるにはあらず  
・経正の最期  
・経正と仁和寺  
・『経正集』『忠度集』と平家の歌人たち  

登場人物

平忠度 たいらのただのり
平忠盛の六男。清盛の弟。

平経正 たいらのつねまさ
平経盛[清盛の弟]の長男。

真・一の谷の戦い


今回は、平家を代表する歌人である、平忠度平経正の最期です。
年齢も、忠度は41(『源平盛衰記』による※)
経正も30代半ば~後半あたりと推定され(※)

若い公達とはまた違う、大人ならではの魅力があります。
(^^)

※忠度の生年…未詳。『源平盛衰記』巻三十七の「薩摩守忠度は生年四十一」が唯一の記述。
※経正の生年…未詳。経盛(1124生)の長男であること、・承安5年(1172)に既に五位、・嘉応元年(1169)に、延暦寺大衆の蜂起に対して宮中警備にあたっていること、などから、1145〜1150年くらいに推定される。(参考:安田元久氏『平家の群像』塙書房、1967年)

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

忠度は、西の木戸口である一の谷の大将軍でした。(『平家物語』巻九)

前々回の記事にあったように、一般的に「一の谷の戦い」といえば、生田の森~福原~山の手(鵯越え)~一の谷という広域の戦場を指す総称になっていますが、
忠度が護っていたのが、地名どおりの「一の谷」(須磨)です。


前々々回の記事にあったように、東の木戸口である「生田の森」自体は落ちておらず、
山の手(鵯越え)からの奇襲が勝敗を決した、とされていますが、

『玉葉』には、「一谷を落とし」とあることから、一応「一の谷」も「落ちている」
生田の森と違って、一の谷の防衛線は護りきれなかったのかもしれません。

一番自九郎許告申、<搦手也、先落丹波城、次落一谷云々、>

一番に九郎(義経)の許から報告があった(搦手である。まず
丹波城を落とし、次に一の谷を落としたという)、
(『玉葉』寿永3年2月8日条)

近年いわれる説のように、義経が「鵯越え」の実行者ではなかったのだとしても、
やっぱり義経軍は強かったのかもしれませんね。
(ーー;)
※参考:元木泰雄氏『治承・寿永の内乱と平氏』吉川弘文館、2013年


平忠度


平忠度は、忠盛の六男。清盛の弟です。

忠度は、富士川の戦い墨俣川の戦い倶利伽羅峠の戦いなど、主要な戦いにほぼ全部出陣している歴戦の武将でもあるのですが、


一方で、忠度は歌人としての活動でも有名です。

仁和寺歌会の常連だったといい(『左記』)

『千載和歌集』などの勅撰和歌集に10首、
私選集『月詣和歌集』に13首が入集。
私家集『忠度集』が伝わっています。

※『月詣和歌集』『忠度集』については、後述します。 

味方と言ったのは…


『平家物語』の忠度の最期をみていきましょう。(今回は有名な「覚一本」準拠です)

忠度が落ちていくところに、岡部六弥太(六野太)忠澄(忠純)が追いかけてきました。
敵か味方かと問われた忠度は、

「是はみかたぞ」

自分は味方であるぞ
『平家物語』巻九「忠度最期」

と答えます。


ん? 今、ウソついた?
(・_・;)

ところが、
忠度が鉄漿黒(かねぐろ=お歯黒)をしていたことから、六弥太に、平家であることを見抜かれてしまいます。

「あッぱれみかたにはかねつけたる人をないものを。平家の君達でおはするにこそ」

ああ、味方には鉄漿黒をつけている人はいないのに。平家の公達でいらっしゃるにちがいない
『平家物語』巻九「忠度最期」


うーん?

それにしても、忠度は、なぜ初めに「味方である」とウソをついたのでしょう。
なんだか、武士らしくない気もしますね。

これには、色々な説があるのですが、

・相手が格下である為、つきあってあげる義理はない為
・あえて戦闘を避け、無駄に血が流れるのを防ごうとした為

…などの理由が考えられています。


忠度は、六弥太は本気で立ち向かうほどの相手ではないし、無闇に血を流しあう必要もない、とみなしたわけですね。

ウソを見破られた忠度は、あっさり認め、

「にッくいやつかな。みかたといはばいはせよかし」

憎いやつだなぁ。味方と言ったら、そう言わせておけばいいのに
『平家物語』巻九「忠度最期」

とかいっちゃいます。


毅然と敵に立ち向かう若い公達の必死さとはまた違って、
敵を軽くいなすような態度に、飄々とした大人の精神的余裕も感じられてカッコイイですね。
(^-^)


忠度の最期


忠度は、「熊野育ちのはやわざ」で三刀浴びせた後、六弥太を組み敷きします。

※『覚一本平家物語』では、忠度が「熊野そだち」であるとしているが、未詳。忠度の幼少期の動向ははっきりしない。忠度の母が、尾張の大県神社大宮司・原大夫高春女という説(『良峯系図』)に拠るならば、生まれは尾張の可能性も。
※但し、忠度は熊野別当湛快の娘を妻としている為、熊野との縁があったとみる説もある(『吾妻鏡』元暦2.2.1)


熊野そだち大力のはやわざにておはしければ、やがて刀をぬき、六野太を馬の上で二刀、落ちつくところで一刀、三刀までぞつかれける。

(忠度は)熊野育ちで大力の早技であられたので、すぐさま大刀を抜き、六野太を馬の上で二刀、馬から落ちたところで一刀、あわせて三刀までお突きになった。
『平家物語』巻九「忠度最期」

忠度もフィジカルバトル強いですね!
(*^-^*)

1対1の勝負では、勝っていた忠度。
六弥太を組み敷き、今にも首をかこうとしたところに、六弥太の郎等が加勢し、忠度の右腕を切り落としてしまいました。

さすがに利き腕を切り落とされたら、どうにもならなさそうですが、
忠度は少しも焦らず、なんと片腕だけで、六弥太を投げ飛ばします。

「しばしのけ、十念となへん」とて、六野太をつかうで、弓だけばかり投げのけられたり

(忠度は)「しばらく退け、十念を唱えよう」といって、六弥太をつかんで、弓の丈ほど投げつけられた
『平家物語』巻九「忠度最期」


( ゚Д゚)!!!

忠度、TUEEEEE!!!


利き腕を切り落とされたのに、落ち着いて、
「念仏唱える時間くらいくれよ」と、片手で敵を投げ飛ばしちゃう、忠度様。

終始、心の余裕を感じるところが、忠度さまの大人の魅力でありますね。


花や今宵のあるじならまし


討ち取られた忠度の箙には、一首の歌が結び付けてありました。

ゆきくれて 木のしたかげを やどとせば 花やこよひの 主ならまし

旅路に日が暮れて、桜の木の下陰を一夜の宿とするなら、
花が今宵の主人となって、もてなしてくれるだろうか

『平家物語』巻九「忠度最期」

超超超・有名な忠度の辞世の和歌ですね。

ただ、この歌は、『忠度集』などに載っていないことから、忠度本人の作かどうかはわからない、とされています。(※)
『平家物語』でも、延慶本・四部合戦状本・源平闘諍録などは、この歌を載せていません

※『忠度集』にも異本が複数あり、この「ゆきくれて~」の一首を含む『忠度集』(内閣文庫本等)もあるのですが、おそらくそれは、『平家物語』を読んだ後世の人の手による加筆だろう、と考えられています。

参考:『和歌大事典』(明治書院、1986)
犬井善壽氏「『忠度集』諸本の奥書識語に見える自筆本伝承と俊成対面伝承」『中世軍記の展望台』(和泉書院、2006)


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

実は読み本系の「延慶本」などの「忠度最期」には、この辞世の和歌もなく、念仏を唱える場面もありません
延慶本では、忠度と六弥太の激しいバトルが生々しく描かれていて、
討ち取った首が忠度だとわかった後も、風流に感心するような描写はないのです。


「忠度の最期」は、もともとは、岡部六弥太の武勲譚が挿入されたものであり、初期の『平家物語』の段階では、この話において「歌人としての忠度」はさほど重視されていなかったとみる説もあります。

読み本系の平家物語では、
・「忠澄、兵衛佐殿に見参に入て、勲功に薩摩守の年来知行の所五个所ありけるを、忠澄に給てけり(『延慶本平家物語』「薩摩守忠度被討給事」)

・「勲功に師盛の知行の跡、備中国をぞ給てける(『延慶本平家物語』「備中守沈海給事」)

このように、公達を討った人物が褒賞をもらう一文で章段が締めくくられている箇所があります。

これは、一の谷の戦いの平家公達の最後譚が、もともとは東国側の武勲譚だったことの名残であると考えられます。
編纂を重ねるうちに、次第に平家の公達の優美さにスポットがあてられ、美談としてまとめられていったのですね。

『忠度集』については、『経正集』とともに後述します!
(^^)


平経正


平経正は、経盛(清盛の弟)の長男。
琵琶の名手としても、歌人としても有名な、文化系ハイスペック男子です。

いっぽう武将としては、同じく傍系の長男である維盛通盛とともに、戦場の前線に送られる要員でもあり、
養和の北陸出兵倶利伽羅峠の戦いなどに出陣しています。
→こちらの記事、倶利伽羅峠の戦い

『平家物語』での登場回数も多く、
巻七「竹生島詣」「経正の都落ち」で琵琶をめぐるエピソードが、
巻八「緒環」では、和歌を詠む場面が描かれる等、
人気の高い公達なのですが、


……なぜか、一の谷の戦いでの最期譚がない

あっても一行だけなのです。(覚一本など)

(゜o゜)WHY? 

唯一、詳しく描いているのが『源平盛衰記』なので、漫画は『盛衰記』をもとにしました。

 

逃ぐるにはあらず


『源平盛衰記』の経正の最期をみてみましょう。

但馬守経正は(中略)鎧は態と不着けり。身を軽くして落給はん料にや、小具足計、長覆輪の太刀をはき、黄駱馬に乗、侍一人も倶し給はず。

但馬守経正は、鎧はわざと着ていなかった。身を軽くして落ちなさる為であろうか、小具足(籠手・脛当など)だけを身に着けて、長覆輪の太刀を佩き、黄駱馬に乗り、侍一人も連れていらっしゃらない。
『源平盛衰記』巻三十八「経俊敦盛経正師盛已下頸共懸一谷」

経正は落ちていくとき、身を軽くする為に、鎧は着ずに、簡単な小具足(籠手・脛当など)だけを身に着けていたそうです。

他の公達には必ず、絢爛豪華な大鎧の描写がある中、シンプルに実利をとる経正兄さん
いいですね。
(*^^*)


経正が馬を走らせていたところ、武蔵の国住人・城(庄)四郎高家に声をかけられます。
※『覚一本平家物語』では、経正を討ったのは、河越小太郎重房となっています。

「是は武蔵国住人城四郎高家と云者也。此に落給ふは平家の公達と奉見。返合て組給へや」と申懸て追行。

(高家が)
「私は武蔵国の住人・城四郎高家という者です。こちらに落ちなさっているのは、平家の公達とお見受けします。引き返して、私と組み合いなさってください」と声をかけて、(経正を)追って行く。
『源平盛衰記』巻三十八「経俊敦盛経正師盛已下頸共懸一谷」


追いかけられた経正は……

経正きつと見返して、「逃ぐるには非ず、己を嫌也」とて馬を早む。

経正は、きっと(高家を)見返して、「逃げているのではない、お前が嫌いなんだ」といって、馬の足を速める。
『源平盛衰記』巻三十八「経俊敦盛経正師盛已下頸共懸一谷」


(;゚Д゚)?

……………ちょ
………経正兄さん?

「逃げているのではない。お前が嫌いなんだ」

なんそれ。

失礼で草。
(;・∀・)

これには、高家もカチンときたようで、
「まさなき殿の詞哉。軍の習いは不嫌上下、向ふ敵に組は法也。其儀ならば、虜にして恥を見せよ。打や者共ゝゝ」

(高家の言葉)
「見苦しい御方の言葉だな。いくさのしきたりでは、身分の上下は区別しない。向かう敵に対して組み合うのが決まりである。そういうつもりならば(経正が組み合わないというのなら)、捕虜にして恥ずかしめよ。者共、討て!」
『源平盛衰記』巻三十八「経俊敦盛経正師盛已下頸共懸一谷」

と怒って、経正に追いつこうと、馬を走らせます。


高家が言うように、経正の態度はなんだか武士らしくない気がしますが、

この理由も、先述の忠度同様、
経正は無益な戦いを避けようとしたのだとも考えられています。

熱くなって追ってくる源氏軍に対して、
クールな態度で受け流す忠度と経正は、かっこいいですね。

また、「嫌いなんだ」という言葉からは、
褒賞の為に手段を選ばず首を狙ってくる源氏軍に対する、嫌悪感のようなものも感じられますね。




経正の最期

高家に追いつかれてしまった経正。
逃げ切れないとわかると、馬から飛び降りて、自刃します。

今は叶はじと思給ければ、馬より飛下、腹掻切て臥給にけり。

今は敵わないとお思いになったので、(経正は)馬より飛び降りて、腹を掻き切って、臥せなさった
『源平盛衰記』巻三十八「経俊敦盛経正師盛已下頸共懸一谷」


( ゚Д゚)!!!

和歌と琵琶に優れた一流の文化人である経正様。
優美なイメージでありながら、その最期はとても潔い…。

敵の手にかからずに自刃したのは、経正が最後に見せた矜持だったのかもしれません。


高家が経正の首をとると、髻に何かが結いつけてありました。
そこには、梵字で光明真言が書かれていて、その奥に、次のような言葉が書かれていました。

「縦朝敵と成て頸をば被渡とも、この真言をば必ずたぶさに可被結付」

たとえ朝敵となって首を渡されようとも、この真言は必ず髻に結い付けられたままにしておくように。

(『源平盛衰記』巻三十八「経俊敦盛経正師盛已下頸共懸一谷」)


この光明真言を書いて経正に与えたのは、第六代仁和寺門跡の守覚法親王(しゅかくほっしんのう)でした。

『源平盛衰記』では、
この言葉に従って、首渡しの時も、経正の髷にはこの真言が結い付けられたままだったといいます。
その後、守覚法親王は、経正の骨を高野山に送り、様々に追善供養をしたとされています。


『源平盛衰記』だけに見えるこのエピソードは、光明真言や追善供養の話などが出てくる為、高野山に関係する説話として後から挿入されたお話である、とも言われています。

ただ、守覚法親王と平経正の間に、特別な親交があったことはよく知られています。
経正と仁和寺との関係は、次項。


経正と仁和寺


『平家物語』『左記』(※)によれば、

平経正は、元服前、幼少の頃から仁和寺に出仕し、
第五代仁和寺門跡・覚性法親王(かくしょうほっしんのう・鳥羽法皇と待賢門院の皇子)に伺候していたといいます。

(※『左記』…守覚法親王の手記。但し、内容に誤りや矛盾がみられることから、守覚法親王本人の作ではないとも言われる。)

経正但馬守者、故御所御時祇候之童也。手操四絃、心学六義。然間被下預青山於紅顔

但馬守経正は、故御所(覚性法親王)の御時に伺候していた稚児だった。手に四絃の琵琶を操り、心に六義を学んでいた。そのために、少年にして青山の琵琶を下賜された。
『左記』

修理大夫経盛の子息、皇后宮亮経正、幼少にては仁和寺の御室の御所に、童形にて候はれしかば、(中略)
八歳の時参りはじめ候ひて、十三で元服仕りしまでは、あひいたはる事の候はぬ外は、あからさまにも御前を立ちさる事も候はざりしに


修理大夫経盛の子息、皇后宮亮経正は、幼少のころは仁和寺の御室の御所に、稚児姿で仕えておられたので、(中略)
(経正のセリフ)
「8歳の時初めて(仁和寺に)参り、13歳で元服いたしましたまでは、病気の時以外は、少しの間も(覚性の)御前を立ち去ることもありませんでしたが」
『平家物語』巻七「経正都落」

経正の幼少の時、御最愛の童形たるによッて、下しあづかりたりけるとかや

(覚性法親王は)経正が幼少の時、御最愛の稚児であったので、(青山の琵琶を)お与えくださったとかいうことである。
『平家物語』巻七「青山の沙汰」


この頃、経正と同時期に、仁和寺で覚性に師事していたのが、後白河院の第二皇子・守覚法親王です。
覚性の没後は、守覚法親王が、第六代仁和寺門跡を継ぎます。

守覚法親王は、治承年間頃から和歌に力を入れ、仁和寺で和歌の定例会を開いていました。(仁和寺歌壇
『左記』では、この仁和寺の歌会には、平家歌人の忠度経盛も常連として参加していたとされています。

「経盛忠度等、為和歌会衆、毎月企参好士也」

経盛忠度は、仁和寺の和歌会衆として毎月参加していた歌人であった。
『左記』

平家系図、平家歌人、覚性法親王、守覚法親王



『平家物語』巻七には、都落ちの時に、経正が仁和寺を訪れ、
先代・覚性法親王から賜った「青山の琵琶」を守覚法親王に返し、最後の別れを惜しんだ有名なエピソードがあります。「経正都落」「青山の沙汰」

幼少期から、仁和寺でともに覚性に仕えたという守覚法親王経正

今回紹介した『源平盛衰記』では、この守覚法親王と経正との間の心の交流を描いているのです。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


美しい話ですね。( ⁎ᵕᴗᵕ⁎ )

……とまとめたいところですが、この話には、尾ひれがつきます。


【ここから余談】

どうやら、先代の五代目門跡・覚性法親王には、稚児を愛でる嗜好があったようで、

『古今著聞集』巻八には、覚性法親王と二人の稚児との三角関係を描いた男色(というか、稚児愛)の話があります。〕

そんな覚性のもとで、童形の姿で毎日仕えていたというのだから、
まぁ経正もそういうことなんだろう…。

という見解が通説になっています。


(が、ほんとかどうかわかりませんよ?)
(ーー;)

覚性法親王と平経正


『経正集』『忠度集』と、平家の歌人たち


今回登場した平忠度平経正は、平家歌壇を代表する歌人でもあり、私家集忠度集』『経正集が現在まで伝わっています。


寿永元年、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の神主である賀茂重保は、賀茂社に奉納する為に、当代の歌人たち(寿永三十六歌人)にそれぞれ百首の歌をもとめました。(「寿永百首和歌」)

忠度集』『経正集は、この「寿永百首和歌」の為に提出した自選和歌集であったと考えられています。

(※同じく三十六歌人の一人である平経盛の『経盛集』の奥書に「神主重保以願請当世好士各和歌百首可進納神殿云々」と書かれていることから)


賀茂重保は、度々賀茂社や自邸で歌会を主催し、平家の歌人たちとも親交が深かった歌壇の中心人物です。

重保の編纂した私選集『月詣和歌集』には、
忠盛、経盛、経正、忠度、資盛、行盛、重衡、通盛、業盛、忠快、広盛、など、多くの平家の公達の歌が入集しています。


月詣和歌集と平家歌人



『平家物語』の中で平家の公達が詠んだとされている歌には、後世に創作された歌も多く含まれていますが、
(勅撰集であっても『玉葉和歌集』に所収の歌は、『平家物語』をもとにしているとみられるから、本人作かはあやしい)

一方、賀茂重保の『月詣和歌集』所収の歌は、平家の公達御本人が詠んだ歌です。

『平家物語』などの創作フィルターを通していない、平家の公達の肉声を聞いたような気持ちになりますね。
( ⁎ᵕᴗᵕ⁎ )

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

ところで、
『月詣集』には、平資盛平行盛の和歌も多く入集していて(資盛8首、行盛7首)
先述の寿永三十六歌人の中には、資盛と行盛も含まれていたのではないか、とも
いわれています。

ということで、
現代には伝わっていませんが、寿永元年には、幻の『資盛集』『行盛集』が存在していたかもしれないそうです。


わーん。読みたかったですね…(T-T)

平行盛、平資盛



※参考文献:井上宗雄氏『平安後期歌人伝の研究 増補版』笠間書院、1988年
谷山茂氏『平家の歌人たち』谷山茂著作集(六)角川書店、1984年
千種聡氏「平家歌人の詠歌小考」『福岡教育大学紀要』51号、2002年
松野陽一氏「寿永百首について」『和歌文学研究』第31号、1974年

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

今回は、平家歌壇を代表するお二人のお話でした。


次回、一の谷の戦い(5)です!
(知章、再登場!……のはず)
(;・∀・)


☆次回更新は、8月上旬~中旬の予定です。
更新の目途が立ちましたら、ブログトップでお知らせいたします。
もうしばらくおまちください。
いつもお読みくださり、ありがとうございます(*^-^*)



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※出典・参考文献/『左記』群書類従完成会/『経正集』『忠度集』『月詣和歌集』新編国歌大観、角川書店/『玉葉』国書刊行会/『吾妻鏡』新訂増補国史大系、吉川弘文館/早川厚一氏・佐伯真一氏・生形貴重氏校注『四部合戦状本平家物語全釈』和泉書院/福田豊彦氏・服部幸造氏『源平闘諍録全注釈』講談社/『長門本平家物語』国書刊行会/『延慶本平家物語全注釈』汲古書院/『屋代本高野本対照平家物語』新典社/『源平盛衰記』中世の文学、三弥井書店/『平家物語』新日本古典文学大系、岩波書店/『平家物語』新編日本古典文学全集、小学館/『平家物語大事典』東京書籍/『平家物語研究事典』明治書院/『平家物語図典』小学館/冨倉徳次郎氏『平家物語全注釈』角川書店/杉本圭三郎氏『平家物語全訳注』講談社/→その他参考文献、発行年等詳細はこちら

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