一の谷の戦い(2)平通盛の最期【平維盛まんが31】




一の谷の戦い。平通盛・教経たち門脇家が護る山の手にも、源氏軍の襲撃が。山の手を破られた平家は、福原を護りきれず、海へと敗走しはじめる。湊川に沿って落ちていく通盛。敵に追いつかれるも、通盛は毅然と戦うのだったが…。

<『延慶本平家物語』第五本、『源平盛衰記』巻三十七より>

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平通盛と小宰相、平家物語、滝口時員
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※漫画はえこぶんこが脚色しています。  

◆解説目次◆ ・登場人物
・平通盛
・通盛と小宰相の恋
・通盛の正妻
・鵯越えの坂落とし?
・通盛の最期 
・通盛の首 
・通盛の遺言 
・平業盛の最期  

登場人物

平通盛 たいらのみちもり
平教盛[清盛の弟]の長男。

平教経 たいらののりつね
平教盛[清盛の弟]の次男。通盛の弟。

平業盛 たいらのなりもり
平教盛[清盛の弟]の三男。通盛の弟。

平通盛

さて、一の谷の戦いの漫画2話目は、少し時間を遡って、前夜の平通盛小宰相のお話から。

平通盛は、平教盛(清盛の弟)の長男。

『平家物語』の影響で、弟の教経の方が剛毅なイメージで有名ですが、
実際には、兄の通盛の方がはるかに多くの戦場に出陣しており、彼も武勇の人なのです。
(富士川を除く、ほぼ全部の戦いに大将軍として参戦。出陣回数はトップクラス

→くわしくはこちらの記事 近江の戦い倶利伽羅峠の戦い水島の戦い

『平家物語』によれば、通盛は、2月6日の夜(一の谷の戦いの前夜)、最愛の妻・小宰相を山の手の陣に呼び寄せていました。

この夜、二人だけの空間で何を語り合っていたのかは(すごく大事な話なのですが)、『平家物語』では、この時点では明かされません。
後に、通盛の討死を知った後で、小宰相自身の口から語らせるという神脚本(…いや、鬼脚本か?)なので、漫画もその意図を汲みました。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

さて、戦の陣にもかかわらず、
悠長に名残を惜しむ通盛と小宰相に対して、弟・教経が苦言を呈する有名な場面があります。

この場面、『源平盛衰記』では、教経が、二人の逢瀬に気を使って、
宵の口に突撃するのをちょっと遠慮した描写があります。

何も会夜の度毎に、昵言尽ぬ中なれば、短き春の夜のうらめしさは、丑みつ許に成にけり。能登殿は宵の程は骨なしと覚して、不被申けるが、既に夜半も過ければ、

(通盛と小宰相は)いつも、逢う夜ごとに睦言の尽きない仲だったので、短い春の夜もうらめしく、丑三つ時(午前2時)ごろになった。
教経は、宵のほどに(邪魔をするのは)無骨だとお思いになって、申されなかったが、すでに夜半もすぎたので

『源平盛衰記』巻三十六「通盛請小宰相局」

豪胆なイメージの教経が、お兄さんのプライベートに気を遣っている描写がちょっとかわいい(?)ですね。(^^)

   

通盛と小宰相

小宰相は、藤原憲方の娘。上西門院(後白河院の姉)に、女房として仕えていました。

『平家物語』に登場する平家の公達は皆、本当に愛妻家で優しいのですが、
中でも、通盛と小宰相の二人の愛の物語は、特に美しく重く描かれています。

『覚一本平家物語』より、二人の馴れ初めを簡単に。

上西門院(後白河院の姉)に仕えていた小宰相は、宮中第一といわれる美女だった。
女院の法勝寺への花見の際に、中宮亮だった通盛は、一目見て恋に落ちた。

通盛は、小宰相のことを片時も忘れられず手紙を送り続けたが、彼女は心を開かないまま三年が過ぎた。

通盛がこれが最後と思って書いた手紙を、使いの者は小宰相の車の簾に投げ入れた。
小宰相は、捨てるわけにもいかないので、袴に挟んだまま、御所に参上したが、女院の前で落としてしまう。
通盛からの恋の手紙だと気づいた女院は、小宰相に通盛の想いを受け容れることを勧めた。

こうして二人は結ばれ、通盛は美しい小宰相を深く愛し、西海にも、船の上にも引き連れて大切にしたのだった。
『平家物語』巻九「小宰相身投

通盛を失った小宰相のその後の話は、維盛の動向にも少し関係してきますので、またその時に…。




通盛の正妻

このように、覚一本では、小宰相は「北の方」と呼ばれ、正妻として描かれているのですが
(その方が話がシンプルになりますからね)

一方、延慶本などの読み本系では、小宰相は通盛の正妻ではありません。
はっきりと「妾」と書かれています。

じゃあ、通盛の正妻は誰なのかというと、なんと宗盛の娘なんですね。
平家一門の一大勢力である門脇家と、本家との結束を固める為の政略結婚ですよね。

「越前三位通盛の北方は屋島の大臣殿の御娘也、御年十二にぞ也給ける、八条女院養進て通盛婿に取せ給たりけれども、未だ少くおはしければ近付給事もなかりけり。

越前三位通盛の正妻は、屋島の大臣殿(宗盛)の娘である。御年十二になっていらっしゃった。八条女院の養女になり通盛を婿になさったけれども、まだ幼くいらっしゃったので、(通盛と)近づきなさることもなかった。
(『延慶本平家物語』第五本「通盛北方に合初る事)

※「延慶本」では、宗盛の娘が、八条院の養女になって通盛を婿にしたとあるが、史実かは未詳


「覚一本」では、終始ラブラブだったかのように描かれる通盛と小宰相ですが、
これが読み本系になると、ちょっと様子が違ってきます。

小宰相殿は妾にておはしければ、一舟には住給はず、別の御舟をおき奉て時々通給て、

小宰相殿は妾妻でいらしゃったので、同じ一つの船にはお住みにならないで、(通盛は小宰相を)別の船に置き申し上げて、時々通いなさって、
『延慶本平家物語』第五本「通盛北方に合初る事」

正妻と、正妻の父である宗盛に憚って、通盛はいつでも小宰相に逢えたわけでもなかったようなのです。
都落ち後は、小宰相を別の船において、通う形をとっていたそうです。
舅であり、一門の総帥である宗盛に気を遣いながらも、どうにかして愛する小宰相に逢いにいく通盛を想像すると、なんというか愛しいですね。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


鵯越の坂落とし?


さて、時を2月7日に戻して、一の谷の戦い。
前回みたように、鉄壁のバリケードで大手の生田の森は防御した平家軍。

『平家物語』によると、平家優位の状況を覆したのが、平家本陣への背後からの襲撃。
有名な「鵯越(ひよどりごえ)の坂落とし」です。

源氏大手ばかりではかなふべしともみえざりしに、九郎御曹司搦手にまはッて、七日の日の明ぼのに、一の谷のうしろ鵯越にうちあがり、すでにおとさんとし給ふに、

源氏は大手(生田の森)の攻撃だけでは、平家に勝つ事ができるとも見えなかったが、九郎御曹司(義経)が搦手にまわって、七日の明け方に一の谷の後方、鵯越に上がり、今にも駆け下ろうとなさるときに、
『覚一本平家物語』巻九「逆落」


この「鵯越」がどこだったのか、には複数の説があります。
【1】『平家物語』の記述どおり、「一の谷」(須磨)の後方=鉢伏山

【2】『玉葉』の記述を参考に、「福原」の後方=夢野(現在も「鵯越」の地名が残る)



『平家物語』の「一の谷の戦い」に出てくる地名が、現実の神戸の地理と合致していない為に、混乱を招いているわけなのですが、

(例)
・播磨と丹波の国境にある「三草山」と、福原のすぐ裏の「山の手」を混同している。
・実際には8km程離れている[一の谷(須磨)← →福原]間を、すぐ近くであるように描く。

近年では、『玉葉』の記述を基にして、現在も「鵯越え」の地名が残る【2】福原の後方(夢野)説、が有力となっています。

其後午剋許定能卿来、語合戦子細、一番自九郎許告申、<搦手也、先落丹波城、次落一谷云々、>次加羽冠者申案内<大手、自浜地寄福原云々、>自辰剋至巳剋、猶不及一時、無程被責落了、多田行綱自山方寄最前、被落山手云々、

その後、午の刻に定能卿が来て、合戦の子細を語った。
「一番に九郎(義経)の許から報告があり(搦手である。まず
丹波城を落とし、次に一の谷を落としたという)、次に蒲冠者(範頼)から報告があり(大手である。浜地から福原に寄せたという)。辰の刻から巳の刻まで、一時(二時間)もかからずにほどなく攻め落とされた。多田行綱が山の方から真っ先に攻め寄せ、山の手を落とした」という。

(『玉葉』寿永3年2月8日条)

『玉葉』には、
「義経がまず丹波城(三草山)を落とし、次に一の谷を落とした」とあります。

前回記事にあったように、一の谷(現在の須磨)は、福原から8~9キロメートルも離れています。
義経による「一の谷」への攻撃は、『平家物語』が語るような平家本陣への攻撃ではありません。

続けて『玉葉』には、
「範頼が浜地から福原に寄せた」
「多田行綱が山の方から攻め寄せ、山の手を落とした」とあります。

【2】夢野の説では、
この『玉葉』の「山の手」こそが、現在も「鵯越」の地名が残る場所。
福原のすぐ裏であり、いわゆる『鵯越の坂落とし』の現場であろうと考えられています。

実際には、この「鵯越」の地形は、坂落としという程の断崖ではなく、なだらかな坂道になっていて、
土地勘のある摂津源氏の多田行綱だったからこそ、山側から福原へ抜けることができるその道を知っていたのだろう、とも言われています。

『玉葉』の記述に拠るならば、福原への直接の襲撃をキメたのは、義経ではなく、多田行綱だったということになりますね。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

福原の背後が破られてしまえば、生田の森や一の谷の城郭(防御施設)も、意味をなさなくなります。
平家は総崩れになり、船のある海へと敗走をはじめました。

山の手を護っていた門脇家の公達も、海に向かって逃れようとましたが、通盛、業盛は敵と組み合って討死。
教経は須磨から淡路へ逃れたことになっています。


※参考文献 菱沼 一憲氏『源義経の合戦と戦略 ―その伝説と実像―』(角川書店)2005年
鈴木彰氏「<一の谷合戦>の合戦空間」『平家物語の展開と中世社会』(汲古書院)2006年
川合康氏「生田森・一の谷合戦と地域社会」『院政期武士社会と鎌倉幕府』(吉川弘文館)2019年
早川厚一氏「『平家物語』における西国合戦譚について」山下宏明氏編『軍記物語の生成と表現』(和泉書院)1995年



通盛の最期


覚一本では、簡潔に済まされる通盛の最期ですが、読み本系では、より詳しく描かれています。今回の漫画は、読み本系の『源平盛衰記』『延慶本平家物語』をもとに描きました。


▼以下、『源平盛衰記』のストーリー

湊川に沿って落ち延びようとしていた通盛は、乗っていた馬が負傷した為に、落馬。
宇多源氏で近江国住人・佐々木(木村)成綱(※)と出会い、組み合いの戦いになります。

(※「覚一本」、『源平盛衰記』では、「木村源三成綱」表記。「延慶本」では、通盛と組み合っているのは佐々木盛綱。)

三位上に成り給ふ、源三はね返さんとしけれども、三位力まさりなりければ、抑へて更に働かさず

【訳】
(組み合って)三位(通盛)が上に乗りなさる。源三(成綱)は跳ね返そうとしたけれど、通盛の方が力が上だったので、(成綱を)抑えこんで全く動かさない。

『源平盛衰記』巻三十七「忠度通盛等最期の事」

フィジカルバトルも強い通盛様、かっこいいですね!
(^_^)

抑え込まれた成綱は、
「実は私は、もと平家の家人で、いやいや戦に駆り出されたのです。」
とか言い出します。

あ? (-_-;)

さらに、成綱、
「通盛様に組み敷かれて嬉しい」
とまで。

只今かく組まれ進ぜぬる事よ、同じくは人手に懸りなんより嬉しくこそと申す。

「今こうして、(通盛に)組まれ申したことですなぁ、どうせ討たれるなら、ほかの人の手にかかるよりも、あなたの手にかかることが嬉しいです」と(成綱が)申し上げる。

『源平盛衰記』巻三十七「忠度通盛等最期の事」
ああ!? (-_-;)

明らかに胡散臭い、突然の成綱のゴマ摺りに対し、
年此日此見慣れし者なれば、不便にも思へども、軍の道は力なし、今斯様に申すを聞けば、実にさこそ思ふらめとて躊躇ひ給ひけるに

(通盛が)
「長年見慣れた者であるので、不憫にも思うけれど、戦の道理だから仕方がない。(でも、成綱が)今このように申すのを聞けば、本当にそう思っているのだろう」と言って、討つのをためらっていらっしゃるところに、

『源平盛衰記』巻三十七「忠度通盛等最期の事」

と、成綱の言葉を信じてしまい、討つのを躊躇してしまう通盛様。

優しい…… 
優しすぎる………

そんな風に甘いから、平家は……平家は……っ!!!
(T-T)

そこに、源氏方の佐々木五郎義清とその郎等が近づいてきます。
一瞬そちらに気をとられた通盛。
そのスキを突かれて、成綱に、下から鎧の隙間を刺されてしまったのでした。

通盛様------っ!!!!!

。゚(/□*)゚。(血の涙)



通盛の最期の内容も諸本によって少しずつ違いますので、この騙し討ちエピソードは『盛衰記』作者の創作なのかもしれませんが、

手柄の為には手段を選ばない源氏軍に対し、
情け深さが命取りになった通盛、という対比が、
実に平家らしいお話ですね。

ちなみに、通盛を騙した成綱のセリフ、「かつて平家に仕えていた」というところまでは嘘ではなかったようです。(※)
通盛も、見たことのある顔だったので、信じてしまったということですね。

(※『吾妻鏡』元暦2年2月27日条。尚、『吾妻鏡』では、通盛を討ったのは、成綱の子の俊綱、ということになっています。)

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




通盛の首


一の谷の戦いで討たれた平家の公達のうち、最高位が従三位で公卿の通盛でした。

後日の話ですが、
一の谷で討たれた平家の公達の頸は、都に運ばれ、罪人として都大路を渡されます

※首渡し… 罪人の首に名前を書いた赤簡をつけ、長槍刀にさし、見せしめの為に都大路を行進し、左京の獄門の木に懸けることをいう。(『吾妻鏡』2月13日条)

今は朝敵になったとはいえ、平家は帝の親族であり、直前まで都で公吏として働いていた人達です。
都の貴族の中には、「首渡しはやりすぎだ」と反対する声もありました。

中でも、公卿だった通盛の頸までもが大路を渡されてしまったことについて、九条兼実は特に憤っています。

公卿頸不可被渡之由、雖有其議、武士猶欝申云々、如何、通盛卿首同被渡了、可弾指之世也、

公卿の首は渡されるべきではないという議論があったが、武士(範頼・義経)がやはり納得しなかったという。どうしたらよいのか。通盛卿の首も渡されてしまった。弾指すべき世である。
『玉葉』寿永3年2月13日条

兼実さま、怒ってくれてありがとうございます…。(;_:)


通盛の遺言


通盛は討たれてしまいましたが、
通盛の侍、滝口時員(ときかず)は、一人生き残り、通盛の最期を妻の小宰相に報告します。

時員も、主人の為に自らの命を捨てる覚悟でしたが、
時員の殉死を止めたのも通盛でした。

『源平闘諍録』より。通盛が討たれる直前のシーン。
滝口時員と云ふ侍、前に塞って「君は落ちさせたまへ。防ぎ矢仕り候はん」と申しければ、「何に、汝は日来云ひつる契りをば違はんと欲るぞ。此の女房をば、吾左も右も成らば、都へ送り奉れ。其れぞ最後の共為たると思ふべし」

滝口時員という侍が、前に塞がって、
「通盛様は落ちなさってください。私が敵を食い止めます。」と申したので、
(通盛は)「どうして、お前は日頃言っていた約束を違えようとするのだ。
私が討たれたならば、(お前は生き抜いて)小宰相を都へお送り申せ。それこそが、通盛への最期の共になると思え」
『源平闘諍録』巻八之下・七「越前三位通盛討たるる事」


次に、覚一本。
通盛の遺言通り、生き延びて小宰相のもとへたどり着いた時員のセリフ。
「時員も一所でいかにもなり、最後の御供仕るべう候へども、かねてよりおほせ候ひしは、『通盛いかになるとも、なんぢはいのちをすつべからず。いかにもしてながらへて、御ゆくゑをもたづね参らせよ』と仰せ候ひしあひだ、かひなきいのちいきて、つれなうこそこれまでのがれ参ッて候へ」

(滝口時員のセリフ)
「時員も、同じ場所で討死し、最後の御供をいたすべきでございましたが、(通盛が)以前から、
『私がどのようになっても、お前は命を捨ててはならない。なんとしてでも生き延びて(小宰相の)御行方をお尋ね申し上げよ』とおっしゃっていたので、甲斐なき命を生き長らえて、無情にもここまで逃れて参ったのです」

『覚一本平家物語』巻九「小宰相身投

木曽義仲が討死したときも、維盛が入水したときも、従者は主人の後を追って殉死しています。(巻九、巻十)

一方、通盛は、従者に殉死を禁じたのです。
そのわけは、「なんとしてでも生き抜いて、愛する小宰相を護ってくれ」と。


通盛様……

どこまでかっこいいんですか。
(TーT)


通盛がそこまでして護ろうとした小宰相。
けれども彼女は、愛する通盛を失った後に、生きていく道は考えられなかったのでした。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


業盛の最期


一の谷の戦いでは、通盛の弟・平業盛(なりもり)[教盛三男]も、討たれてしまいます。

業盛の最期も、覚一本では一行で済まされているのですが、
読み本系の『延慶本』『源平盛衰記』等では、強くてかっこいい戦いの場面があります。

…が尺が、足りないので、詳しくは次回。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


【お詫び】
前回、「次回、知章が…」みたいなことを言っておいて、全然そこまで話が進みませんでした…。(小松家あんまり関係ないので、通盛はナレで済ますつもりだったんですが、やっぱり描かずにはいられませんでした。)







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※出典・参考文献/『玉葉』国書刊行会/『吾妻鏡』新訂増補国史大系、吉川弘文館/早川厚一氏・佐伯真一氏・生形貴重氏校注『四部合戦状本平家物語全釈』和泉書院/福田豊彦氏・服部幸造氏『源平闘諍録全注釈』講談社/『長門本平家物語』国書刊行会/『延慶本平家物語全注釈』汲古書院/『屋代本高野本対照平家物語』新典社/『源平盛衰記』中世の文学、三弥井書店/『平家物語』新日本古典文学大系、岩波書店/『平家物語』新編日本古典文学全集、小学館/『平家物語大事典』東京書籍/『平家物語研究事典』明治書院/『平家物語図典』小学館/冨倉徳次郎氏『平家物語全注釈』角川書店/杉本圭三郎氏『平家物語全訳注』講談社/ →その他参考文献、発行年等詳細はこちら

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