倶利伽羅峠の戦い! 前編【平維盛まんが 12】 傍流長男の試練 『平家物語』『玉葉』
寿永二年四月、かつてない規模の追討軍が北陸に向かって出立する。 大将軍に任命された維盛だったが…
<『平家物語』巻七『玉葉』寿永二年六月五日条より>
※漫画はえこぶんこが脚色しています。
登場人物
平維盛 たいらのこれもり平清盛の長男[重盛]の長男。
平通盛 たいらのみちもり
平清盛の弟[教盛]の長男。
平経正 たいらのつねまさ
平清盛の弟[経盛]の長男。
養和の大飢饉と北陸の危機
治承四年(1180)、夏の大干魃、さらには秋の台風が農作物に甚大な被害を与え、この後二年に渡り大規模な飢饉が起こりました。 (養和の飢饉)
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その頃、北陸では…
治承五年六月、越後を拠点とする平家方の豪族・城資職(平資職)が、木曽義仲の軍に敗れ(横田河原の合戦)、
これ以降、北陸での反乱が激化することになります。
七月、越中・加賀の国人が蜂起し
能登では目代が都に逃げ帰り、国司の郎従が斬殺されるなど、北陸の情勢が悪化します。
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平家の知行国も多く、都への食糧の供給地でもある北陸の支配を失うことは、平家にとって死活問題でした。
八月、平通盛、平経正が追討使として派遣されますが、現地の国人の抵抗が激しく、戦果をあげられないまま撤退。
その後、何度か北陸追討軍の派遣が検討はされるものの、飢饉の影響もあって実現には至りませんでした。
こうして平家は、北陸に対して有効な手を打てないまま、時間が過ぎていったのでした。
北陸追討使、都を出る
飢饉から立ち直った寿永二年、平家はようやく大軍を北陸に派遣することになります。
『平家物語』では十万騎となっていますが、これは誇張で、実際には四万騎ほど(『玉葉』)。 だったと考えられています。 それにしても空前の大軍であることには間違いありません。
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兵の数が多いのはいいことのようにも思えますが、当然ながら、それを賄う膨大な兵糧が必要になります。
官軍である追討使は、遠征道中、兵糧や物資を徴発することが許されていたのですが、折しも飢饉の直後にこれらを容赦なく巻き上げていく行為は、頗る評判が悪かったようです。
なかなかひどい略奪の様子が描かれていますが、わりとこれは真実だったようです。
遠征軍には、富士川の戦い同様、臨時に集められた駆武者が多く含まれていました。 彼らは京内に集まったころから、路上の人馬雑物を強奪し、これらの狼藉を宗盛に訴えても取り締まれる状況ではなかったといいます。 (『玉葉』)
さらに、延慶本『平家物語』には、
民衆が、追討使の略奪行為に対し、遠くから非難の叫びをあげた描写があります。
いつの時代も合戦など、一般庶民にとっては迷惑以外の何物でもないのは当然ながら、『平家物語』でここまで庶民の目線が描かれるのは珍しく、寿永の北陸追討軍がよっぽど恨まれていたことが伺える一幕となっています。
遠征軍をまかされた人々
さて、そんな追討使を任された大将軍は、覚一本『平家物語』では以下の通り。
平維盛(重盛の長男)、平通盛(教盛の長男)、平経正(経盛の長男)
平忠度(忠盛の七男)、平知度( 清盛の六男)、平清房(清盛の七男)
平忠度(忠盛の七男)、平知度( 清盛の六男)、平清房(清盛の七男)
分家の長男である維盛、通盛、経正、そして平家一門ではあるけれども末弟の忠度、知度、清房 らといったメンバーは、追討使としてはお馴染みの顔ぶれです。
「延慶本」などでは、行盛(清盛の次男[基盛]の子)もいます。
(平行盛については、こちらの記事 → 大宰府、月夜の歌会)
美男子キャラの維盛もそうなんですが、恋物語で有名な通盛、琵琶で有名な経正も、優美なイメージとは裏腹に、武将としては何度も過酷な遠征に送り込まれていますよね。
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ところで今回の北陸遠征には、平盛俊・盛嗣や藤原景家・景高といった平家主流に属する家人たちも従軍しています。
本来ならば、彼らを指揮する知盛や重衡も同行すべきところなのですが(墨俣川の時のように)、今回は参加していません。
つまり、家臣団としては平家の総力を集結した形なのですが、それをまとめるのが、弱冠二十五歳の、傍流の維盛という構図になってしまっているのです。
この後の倶利伽羅峠・篠原の戦いについて九条兼実は、『玉葉』に、次のような見解を記しています。
つまり、侍大将(盛俊たち)と、大将軍(維盛達)が、お互い主導権を争っていたというのです。
盛俊や景家のような、普段自分の配下でもないベテランの侍大将たちをもまとめなければならない、若い維盛の気苦労を察する一文です。
平経正と竹生島
さて、そんな不穏な遠征道中ですが、『平家物語』では、ここで突然、平経正の美しい琵琶説話が挿入されます。
この経正の琵琶説話は、「延慶本」「長門本」などには含まれないため、後から追加された物語であると言われています。
火打城の戦い
4月27日、追討使は、越前国丹生郡にある火打城を陥落させ、加賀に入りました。 (火打城の戦い)
(尚このとき、平家が戦っていたのは在地の国人であり、この時点ではまだ追討の対象は義仲ではなかったとみられています)
『平家物語』では、北陸遠征の緒戦を飾るこの勝報に、都に残っていた平家一門は喜び勇んだと描かれています。
このまま、平家の快進撃が続くかと思われましたが…
(その後の結果はわかってるんですが)
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次回、倶利伽羅峠の戦い-後編【寿永二年 維盛二十五歳】
どうなる維盛!
(だから結果はわかってるんですが)
次回更新は、五月下旬の予定です。

