倶利伽羅峠の戦い! 前編【平維盛まんが 12】 傍流長男の試練 『平家物語』『玉葉』


寿永二年四月、かつてない規模の追討軍が北陸に向かって出立する。 大将軍に任命された維盛だったが…

<『平家物語』巻七『玉葉』寿永二年六月五日条より> 
平家物語の平宗盛
平家物語の平維盛と平通盛と平経正、倶利伽羅峠の戦い
平家物語の倶利伽羅峠の戦い
平家物語の平維盛と平通盛、倶利伽羅峠の戦い
平盛俊と藤原景家、平通盛と平維盛
平家物語の平維盛と平通盛、倶利伽羅峠の戦い
平家物語の平維盛、倶利伽羅峠の戦い、延慶本

※漫画はえこぶんこが脚色しています。  

◆解説目次◆ ・登場人物
・養和の大飢饉と北陸道の危機
・北陸遠征軍、都を出る
・遠征軍を任された人たち
・平経正と竹生島
・火打城の戦い
 

登場人物

平維盛 たいらのこれもり
平清盛の長男[重盛]の長男。

平通盛 たいらのみちもり
平清盛の弟[教盛]の長男。

平経正 たいらのつねまさ
平清盛の弟[経盛]の長男。

養和の大飢饉と北陸の危機

治承四年(1180)、夏の大干魃、さらには秋の台風が農作物に甚大な被害を与え、この後二年に渡り大規模な飢饉が起こりました。 (養和の飢饉

この影響で、当分の間、平家は大規模な遠征を行うことができなくなります。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

その頃、北陸では…

治承五年六月、越後を拠点とする平家方の豪族・城資職(平資職)が、木曽義仲の軍に敗れ(横田河原の合戦)、
これ以降、北陸での反乱が激化することになります。

七月、越中・加賀の国人が蜂起し
能登では目代が都に逃げ帰り、国司の郎従が斬殺されるなど、北陸の情勢が悪化します。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

平家の知行国も多く、都への食糧の供給地でもある北陸の支配を失うことは、平家にとって死活問題でした。

八月、平通盛、経正が追討使として派遣されますが、現地の国人の抵抗が激しく、戦果をあげられないまま撤退。
その後、何度か北陸追討軍の派遣が検討はされるものの、飢饉の影響もあって実現には至りませんでした。

こうして平家は、北陸に対して有効な手を打てないまま、時間が過ぎていったのでした。


北陸追討使、都を出る

飢饉から立ち直った寿永二年、平家はようやく大軍を北陸に派遣することになります。
 
「大将軍六人、しかるべき侍三百四十余人、合其勢十万余騎、寿永二年四月十七日辰の一点に、都を立ッて北国へこそおもむきけれ」
『平家物語』巻七「北陸下向」

『平家物語』では十万騎となっていますが、これは誇張で、実際には四万騎ほど(『玉葉』)。 だったと考えられています。 それにしても空前の大軍であることには間違いありません。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

兵の数が多いのはいいことのようにも思えますが、当然ながら、それを賄う膨大な兵糧が必要になります。
官軍である追討使は、遠征道中、兵糧や物資を徴発することが許されていたのですが、折しも飢饉の直後にこれらを容赦なく巻き上げていく行為は、頗る評判が悪かったようです。

『平家物語』には、追討軍の沿道での略奪行為が描かれています。

「かた道を給はッてンげれば、逢坂の関よりはじめて、路地にもッてあふ権門勢家の正税、官物をもおそれず、一々にみなうばひとり、志賀、辛崎、三河尻、真野、高島、塩津、貝津の道のほとりを次第に追捕してとほりければ、人民こらへずして山野にみな逃散す」

【訳】
往路の経費を道中で徴発することが許されていたので、逢坂の関を越えたところから、途中で会った権門勢家の正税・官物をも恐れず、残らずみな奪い取り、志賀、辛崎、三河尻、真野、高島、塩津、貝津の沿道を次々に略奪して通っていったので、人民は耐えきれず、みな山野に逃げ隠れた。
覚一本『平家物語』巻七「北陸下向」

なかなかひどい略奪の様子が描かれていますが、わりとこれは真実だったようです。

遠征軍には、富士川の戦い同様、臨時に集められた駆武者が多く含まれていました。 彼らは京内に集まったころから、路上の人馬雑物を強奪し、これらの狼藉を宗盛に訴えても取り締まれる状況ではなかったといいます。 (『玉葉』)

さらに、延慶本『平家物語』には、
「人民山野に逃隠りて遥にこれを見遣り各聲をととのへてぞ叫びける、『昔よりして朝敵をしずめむが為に、東国北国に下り、西海南海に赴く事、其例多しといへども、此の如く人民を費やし、国土を損ずる事なし』」

【訳】
人民は、山野に逃げ隠れて、はるかに(追討軍を)見やり、各々声をそろえて叫んだ。 「昔から朝敵を鎮める為に、東国北国に下り、西海南海に赴くことは多かったといっても、このように人民を費やし、国土を損ずることは今までなかった」
延慶本『平家物語』巻三末「為木曽追討軍兵向北国事」

民衆が、追討使の略奪行為に対し、遠くから非難の叫びをあげた描写があります。

いつの時代も合戦など、一般庶民にとっては迷惑以外の何物でもないのは当然ながら、『平家物語』でここまで庶民の目線が描かれるのは珍しく、寿永の北陸追討軍がよっぽど恨まれていたことが伺える一幕となっています。


遠征軍をまかされた人々

さて、そんな追討使を任された大将軍は、覚一本『平家物語』では以下の通り。

平維盛(重盛の長男)、平通盛(教盛の長男)、平経正(経盛の長男)
平忠度(忠盛の七男)、平知度( 清盛の六男)、平清房(清盛の七男)


分家の長男である維盛通盛経正、そして平家一門ではあるけれども末弟の忠度知度清房 らといったメンバーは、追討使としてはお馴染みの顔ぶれです。
「延慶本」などでは、行盛(清盛の次男[基盛]の子)もいます。

(平行盛については、こちらの記事 → 大宰府、月夜の歌会

美男子キャラの維盛もそうなんですが、恋物語で有名な通盛、琵琶で有名な経正も、優美なイメージとは裏腹に、武将としては何度も過酷な遠征に送り込まれていますよね。

平家平氏系図。平維盛と平通盛と平経正。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

ところで今回の北陸遠征には、平盛俊・盛嗣藤原景家・景高といった平家主流に属する家人たちも従軍しています。

本来ならば、彼らを指揮する知盛重衡も同行すべきところなのですが(墨俣川の時のように)、今回は参加していません。

つまり、家臣団としては平家の総力を集結した形なのですが、それをまとめるのが、弱冠二十五歳の、傍流の維盛という構図になってしまっているのです。


この後の倶利伽羅峠・篠原の戦いについて九条兼実は、『玉葉』に、次のような見解を記しています。

「盛俊、景家、忠経等、已上三人、彼家第一之勇士等也、≪中略≫彼三人等、大将軍等、相争権盛之間、有此敗云々」

【訳】
盛俊、景家、忠経ら(以上三人は、平家の第一の勇士たち)、≪中略≫ かの三人の郎党たちと大将軍たちが権勢を争いあっていたので、この敗けがあった
『玉葉』寿永二年六月五日条


つまり、侍大将(盛俊たち)と、大将軍(維盛達)が、お互い主導権を争っていたというのです。 

盛俊や景家のような、普段自分の配下でもないベテランの侍大将たちをもまとめなければならない、若い維盛の気苦労を察する一文です。

維盛としては、無秩序な駆武者たちを従え、土地の人からも恨まれ、さらに普段自分の軍制に属さない家臣団までをまとめる役目を担わされ、ずいぶんとキツイ仕事を背負わされた感がありますね。

平経正と竹生島

さて、そんな不穏な遠征道中ですが、『平家物語』では、ここで突然、平経正の美しい琵琶説話が挿入されます。

琵琶湖の北部にある竹生島にわたった経正が、竹生島明神の前で琵琶を弾くと、明神が白龍になってあらわれた。 経正は有難さに涙を流し、歌を詠んだ。

 千はやふる 神にいのりの かなへばや しるくも色の あらはれにける
『平家物語』巻七 竹生島詣

この経正の琵琶説話は、「延慶本」「長門本」などには含まれないため、後から追加された物語であると言われています。
戦いに明け暮れるだけではない、平家の公達の優美な姿が挟まれるところが、『平家物語』らしいですね。

平経正の竹生島詣、『平家物語』巻七


火打城の戦い

4月27日、追討使は、越前国丹生郡にある火打城を陥落させ、加賀に入りました。 (火打城の戦い

(尚このとき、平家が戦っていたのは在地の国人であり、この時点ではまだ追討の対象は義仲ではなかったとみられています)

『平家物語』では、北陸遠征の緒戦を飾るこの勝報に、都に残っていた平家一門は喜び勇んだと描かれています。

このまま、平家の快進撃が続くかと思われましたが…
(その後の結果はわかってるんですが)


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


次回、倶利伽羅峠の戦い-後編【寿永二年 維盛二十五歳】

どうなる維盛!
(だから結果はわかってるんですが)


次回更新は、五月下旬の予定です。


▼シェア
 





※参考文献/『玉葉』国書刊行会/『山槐記』『吉記』増補史料大成、臨川書店/『延慶本平家物語』勉誠社/『平家物語』新日本古典文学大系、岩波書店/『平家物語』新編日本古典文学全集、小学館/『平家物語図典』小学館/『平家物語大事典』東京書籍/冨倉徳次郎氏『平家物語全注釈』角川書店/杉本圭三郎氏『平家物語全訳注』講談社/川合康氏『源平の内乱と公武政権』吉川弘文館/高橋昌明氏『平清盛 福原の夢』講談社 /元木泰雄氏『治承・寿永の内乱と平氏』吉川弘文館/ 永井晋氏『平氏が語る源平争乱』吉川弘文館/ →その他参考文献、発行年等詳細はこちら

にほんブログ村 本ブログ 古典文学へ
【おすすめ記事】

維盛中宮権亮 維盛右京大夫集 富士川の戦い 倶利伽羅峠 平家山門連署 京都防衛戦線 資盛の都落ち 維盛の都落ち
【記事一覧】他のお話はこちらからどうぞ!

【平維盛の生涯】
■1【一四歳】武器は作法と己の美貌!|玉葉
■2【一八歳】美しすぎる青海波舞!|平家物語
■3【一九歳】唯一の弱点?|建礼門院右京大夫集
■4【二一歳】無文の太刀と重盛の病|平家物語
■5【二一歳】熊野詣と重盛の他界|平家物語
■6【二二歳】以仁王の挙兵|玉葉
■7【二二歳】富士川の戦い-前|山槐記・玉葉
■8【二二歳】富士川の戦い-中|山槐記・玉葉
■9【二二歳】富士川の戦い-後|山槐記・玉葉
■10【二二歳】近江の戦い|玉葉
■11【二三歳】墨俣川の戦い|玉葉・吉記
■12【二五歳】倶利伽羅峠の戦い-前|平家物語
■13【二五歳】倶利伽羅峠の戦い-後|源平盛衰記
■14【二五歳】篠原の戦いと山門連署|平家物語
■15【二五歳】最後の京都防衛戦線|吉記
■16【二五歳】都落ち[資盛と後白河院]|愚管抄
■17【二五歳】都落ち[忠清と貞能]|平家物語
■18【二五歳】都落ち[維盛と新大納言]|平家物語
■19【二五歳】福原落ち-前編|平家物語
■20【二五歳】福原落ち-後編|平家物語
■21【二五歳】大宰府、月夜の歌会|平家物語
■22【二五歳】大宰府落ち-前編|平家物語
■23【二五歳】大宰府落ち-後編|平家物語
■24【二五歳】貞能の離脱|吾妻鏡
■25【二五歳】水島の戦い|源平盛衰記
■26【二六歳】木曽義仲との和平交渉|玉葉
■27【二六歳】福原奪還と維盛の病|平家物語
■28【二六歳】三草山の戦い-前編|平家物語
■29【二六歳】三草山の戦い-後編|平家物語
■30【二六歳】一の谷の戦い(1)|平家物語



このブログの人気の投稿

水島の戦い!【平維盛まんが 25】『平家物語』『源平盛衰記』

平貞能の離脱と、資盛の手紙【平維盛まんが 24】『玉葉』『吾妻鏡』『平家物語』

福原奪還と維盛の病【平維盛まんが27】| 『平家物語』『源平盛衰記』

木曽義仲との和平交渉!【平維盛まんが26】|『玉葉』『吉記』 『平家物語』

三草山の戦い!(前編)【平維盛まんが28】|『平家物語』『吾妻鏡』

三草山の戦い!(後編)【平維盛まんが29】|『平家物語』『吾妻鏡』

一の谷の戦い(1)生田の森の攻防!【平維盛まんが30】|『平家物語』

大宰府落ち(後編) 平清経の入水【平維盛まんが23】 『平家物語』

平家都落ち! 後編(維盛と新大納言)【平維盛まんが18】 『平家物語』

平家都落ち! 前編(資盛と後白河院)【平維盛まんが 16】『愚管抄』