以仁王の挙兵【平維盛まんが 6】実際の大将軍は重衡と維盛?『玉葉』
重盛の没後、ついに後白河院と清盛は決裂、治承三年のクーデターへと発展。安徳天皇が即位し高倉院政がスタートする一方、それを是としない以仁王が挙兵。維盛は追討の大将軍として宇治に向かう…
<『玉葉』治承四年五月二十六日条より>
※漫画はえこぶんこが脚色しています。
登場人物
平維盛 たいらのこれもり平清盛の長男[重盛]の長男。
平重衡 たいらのしげひら
平清盛の五男。
後白河院の挑発
以仁王の挙兵の前年、治承三年の動向を見ていきましょう。
重盛の没後、後白河院の平家に対する巻き返しが始まりました。
■摂関家領問題
治承三年6月、清盛の娘・盛子が24歳の若さで他界します。
盛子は亡夫・藤原基実が遺した膨大な摂関家領を伝領していましたが、盛子の没後、後白河院は院の近習である藤原兼盛を倉預として、これらの所領を管理させました。
こうして盛子の遺領は、実質、後白河院の管理下におかれることになりました。
■摂関家人事への介入
盛子の養子であり、清盛の娘婿である藤原基通を飛び越えて、藤原基房の子・師家を権中納言にするという人事が行われました。これは、摂関家の嫡流を師家とするという後白河院の意図であり、上記の所領もやがて師家のものになることも意味しています。
■越前国没収
治承三年のクーデター
後白河院による平家への挑発とも言えるこの事態を受けて、福原にいた清盛は11月14日、武士数千騎を率いて上洛。
軍事力を背景に、これらを覆す人事を強行します。(治承三年のクーデター)
●関白・藤原基房、権中納言・師家を解官させ、娘婿である基通を内大臣、関白に。
●太政大臣藤原師長以下、反対派の廷臣、院近習ら39名を解官。
●藤原基房を大宰権帥に左遷する形をとって配流に。
(※実際には基房が出家したため、備前にとどまりました)
●後白河院を鳥羽殿に幽閉。
治承四年(1180)2月21日、高倉天皇から、言仁親王(安徳天皇)への譲位が行われ、高倉院政が発足しました。
厳島御幸
治承四年三月、高倉上皇は譲位後初の社参として、平家一門が信仰していた安芸厳島神社に参詣することになりました。
ところが、石清水・賀茂・春日・日吉などに参詣してきた先例を無視するものとして、園城寺等の権門寺院が反発。
結局、高倉上皇の厳島御幸は強行されますが、権門寺院と平家との対立は深まります。
以仁王の挙兵
以仁王は、後白河院の第三皇子。母は閑院流藤原季成の娘成子。
八条院暲子内親王の猶子となっていた以仁王には、自らが鳥羽-近衛-二条と継承されてきた皇統を受け継ぐ存在であるという認識がありました。
ところが安徳天皇が即位したことで、自らが天皇となる道は閉ざされてしまいます。
平滋子の子である高倉天皇に続いて、高倉と平徳子の子・安徳天皇が即位したことは、正統を自負する以仁王にとっては許しがたいことでした。
さらに治承三年のクーデターで、父・後白河院が幽閉されたことや、以仁王の所領が没収されたことも、平家への恨みをさらに募らせる原因となりました。
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治承四年4月9日、以仁王は、平家追討を呼びかける令旨を発します。
令旨の中で以仁王は、自らを壬申の乱の大海人皇子になぞらえて、「正統な国家権力秩序の回復をめざし、自らが即位する」ことを宣言。
王位を奪った平家を追討する為、源氏などの諸国の武士への協力を要請しました。
この動きはすぐに平家に察知されます。
5月15日、以仁王の皇族籍は剥奪され、土佐への配流が決定されました。
ところが、検非違使が以仁王の館を囲んだときには、以仁王は既に脱出。
園城寺が以仁王を匿っていることが判明しましたが、園城寺は引き渡しを拒否。
5月21日、平家は、「前大将宗盛卿已下十一人」(平宗盛・頼盛・教盛・経盛・知盛・維盛・資盛・清経・重衡と、源頼政)の将で園城寺への総攻撃を決定しました。
ところが、追討軍の中に名のあがっている源頼政は、既に以仁王の側についており
5月22日、子息らとともに園城寺に入ってしまいます。
園城寺は、延暦寺と興福寺にも連携を呼びかけました。
しかし、天台座主明雲の説得もあり延暦寺は協力を拒否。
さらに園城寺内部でも、平家に与する動きがあったため、園城寺に留まるのは危険だと察した以仁王と頼政は、興福寺をたよって、南都へ向けて走ります。
南都へ向かう途中、平等院で休んでいるところに平家の追討軍が追いつき、戦闘の末、頼政らは討たれてしまいました。
頼政らが平等院で戦っている間に逃れた以仁王ですが、南都の手前、南山城でついに追いつかれて討たれたといいます。
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大将軍、重衡と維盛
上記漫画は、『玉葉』治承4年5月26日条を基にしているのですが、このときの大将軍は、実は重衡と維盛です。
とはいえ維盛も、実際に戦闘に参加したわけではありません。
この日の維盛の動向をみてみましょう。
以仁王が園城寺を脱出し南都に向かった報せを聞いたとき、宗盛はただちに、藤原景家・景高(景家の子)・藤原忠清・忠綱(忠清の子)を先鋒部隊として現地に向かわせます。
実際に、宇治で頼政と戦ったのはこの先鋒部隊です。
続いて、大将軍一・二名を向かわせることになり、重衡と維盛が派遣されることが決まりました。
景家たちが先に現地に向かっていますが、官軍の正式な大将軍は、重衡と維盛だったということになります。
ところが戦闘は短時間で決着がついたため、重衡・維盛が現場に到着しないうちに、既に戦いは終わっていました。
引き上げてきた先鋒部隊と道中で出会った重衡と維盛は、京に引き返したということです。
以上は、京に戻った重衡と維盛が、高倉上皇の前で報告した内容です。
尚この時、重衡が鎧姿のままで、維盛が衣冠に着替えてきたというのは、原文のとおりです。
(ここ、ちょっと妄想が捗る…)
以上のように、大将軍といってもこの時は、維盛が自ら陣頭指揮をとったわけではなく、実際の戦場で活躍したのは平家の歴戦の家人たちでした。
なお、『山槐記』によれば、
重衡と維盛が、強気にも、そのまま南都まで進軍すべきだと主張したところ、
忠清が「思慮有る可し。若き人々軍陣の子細を知らず」と諫めたといいます。
(治承4年5月26日条)
忠清が「思慮有る可し。若き人々軍陣の子細を知らず」と諫めたといいます。
(治承4年5月26日条)
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このように、22歳で経験も浅い維盛に、軍を指揮する手腕が期待されていたわけではなく、実際に戦闘にあたっていたのは、忠清のような百戦錬磨の家人たちです。
それは富士川の戦いや倶利伽羅峠の戦いについても言えることで、よくある平家軍への批判は必ずしも大将軍の維盛だけに向けられるべきでもないのですが…
(:;)
詳細はこちらの記事→富士川の戦い 倶利伽羅峠の戦い(前編) (後編)
維盛と忠清の関係については、次回詳しく語ります。
『平家物語』の「橋合戦」?
え?
有名な「橋合戦」はどこ行った?
平知盛率いる平家軍と頼政軍が正面から衝突する「橋合戦」は、『平家物語』において始めに描かれる本格的な合戦です。
ですが、『玉葉』からもわかるように、実際には頼政軍と戦ったのは、藤原忠清や藤原景家といった平家の家人であり、
平家一門の大将軍(これも知盛ではなく、重衡・維盛)は、現場に到着すらしていません。
「橋合戦」は、『平家物語』の創作が多分に含まれている部分なのです。
もちろん、それはそれで文学作品として素晴らしいのですが、この漫画の主人公は維盛なので、
(覚一本『平家物語』では、この戦いに維盛は一ミリも出てこないので(- -;)
(覚一本『平家物語』では、この戦いに維盛は一ミリも出てこないので(- -;)
今回は、『玉葉』をもとに描きました。(だからわりとアッサリ)
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八月、ついに源頼朝が挙兵。
次回、富士川の戦い(前編)【治承四年 維盛二十二歳】
次回更新は、3月25日頃の予定です。