平重衡の生け捕り!【平維盛まんが35】




一の谷の戦い。西へ西へと逃走する重衡は、追走する梶原軍に馬を射られてしまう。代わりの馬を差し出すべき従者にも裏切られ、逃げ場のなくなった重衡は、自害しようとするが…

<『平家物語』巻九、巻十より>

※漫画はえこぶんこが脚色しています。  

◆解説目次◆ ・登場人物
・平敦盛の最期
・一の谷合戦、総括
・戦場の全てをみた重衡
・盛長の裏切り
・自害を試みる重衡 
・重衡の生捕と梶原景時 
・重衡の和平の提案 
・和平交渉のゆくえ  

登場人物

平重衡 たいらのしげひら
平清盛の五男。


平敦盛の最期


超有名公達の最期がまさかのナレで申し訳ありませんっ
(><)
(いきなり、お詫び)

『覚一本平家物語』の「敦盛最期」は、現中2国語の教科書にも載っているほどメジャーで、既に素晴らしいコンテンツが世にたくさんありますので、

この記事では、『延慶本平家物語』の敦盛がかっこいい、というお話をしたいと思います。
(^^)


▼延慶本の、熊谷直実と敦盛の戦闘シーン!

馬の足立つほどになりければ、弓矢をなげすてて、太刀を抜きて額にあてて、をめいてはせあがりたり。(中略)上になり下になり、三はなれ四はなれくみたりけれども、つひに熊谷上になりぬ。

(熊谷に声をかけられ、汀に戻ってきた敦盛が)
馬の足が立つほどになったので、
弓矢を投げ捨てて、太刀を抜いて額にあてて、大声をあげて駆けあがった。(熊谷と組みあって)上になり下になり、三離れ、四離れして組みあったけれど、しまいに熊谷が上になった。

『延慶本平家物語』第五本 「敦盛討たれ給ふ事、付けたり敦盛の八嶋へ送る事」

「弓矢を投げ捨てて」
「太刀を抜いて額にあてて、おめいて馳せ上がり」…

なんだか、少年漫画の主人公みたいでかっこいいですね!
(・∀・)

覚一本の儚く討たれた敦盛とはちょっとイメージが違います。


延慶本の敦盛が強いのは、「忠度の最期」と同様に、「敦盛の最期」がもともとは熊谷直実の武勲譚(+発心譚)だったからであろうと考えられています。

「兵衛佐殿の仰せに、『能き敵打ちて進らせたらむ者には千町の御恩有るべし』と候ひき。彼の所領、即ち君より給はりたりと存じ候べし。」

(熊谷直実から敦盛へのセリフ)
「兵衛佐殿(頼朝)が仰るには、『よい敵を討ち取った者には、千町の褒賞をあたえよう』とありました。その所領は、まさにあなたより(敦盛を討った褒賞として)いただきたいと思うのです。」
(『延慶本平家物語』)

覚一本では、直実は供養のことしか言ってませんが、延慶本では、褒賞のことまで言っちゃってますね。
(本人に対し、正直すぎる)
(ーー;)

直実の武功を語るためには、敦盛が強いほうが都合がよかったのですね。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


以前の記事でも触れましたが、延慶本などの読み本系の『平家物語』では、平家の公達は意外にフィジカルバトルに強く、敵と互角に戦う様子が描かれています。
平通盛の最期

それが、次第に、平家の公達の優美さや儚さにスポットがあてられて、涙を誘う美談に変化していったと考えられています。
(※参考文献 北川忠彦氏『軍記物語論考』三弥井書店 1989年)


   

一の谷合戦、総括


『平家物語』では、平経俊(経盛次男)・平清房(清盛八男)・平清貞(清盛養子)は、
三騎で敵の中に駆け入って、討ち死にしたといいます。

一の谷の戦いで討たれた平家の公達は、『平家物語』(覚一本)「落足」によれば、以下の10人。

越前三位通盛、蔵人大夫業盛、薩摩守忠度、武蔵守知章、備中守師盛、尾張守清貞、淡路守清房、皇后宮亮経正、若狭守経俊、大夫敦盛

経盛の子息は経正経俊敦盛の三兄弟が討死。
教盛の子息も通盛業盛が討死。
追討使の常連だった忠度清房の討死。
知盛の嫡子知章の討死…

平家側の被害は甚大ですね。
このうち、業盛知章師盛敦盛はまだ10代でした。
(T-T)

▼一の谷合戦、平家一門の戦没者(×印)



戦場の全てをみた重衡


平重衡は、後藤盛長と主従二人で、浜添いに西へ西へと落ちていました。

たすけ船共、漕ぎ出しにければ、西をさしてぞあゆませける。
経嶋をうち過ぎて、湊川をうち渡りて、かるも河、駒の林を弓手に見なし、蓮の池をば馬手になし、板屋戸、須磨にぞかからせ給。明石の浦を、渚に沿ひてひかへひかへ落ちられけり。


助け船も漕ぎ出てしまっていたので、(重衡と盛長は)西へ向かって、馬を進ませた。経ケ嶋を過ぎて、湊川を渡って、苅藻川、駒の林を左に、蓮の池を右側にみて、板屋戸、須磨に通りかかり、明石の浦を、渚に沿って馬をひきとめひきとめ落ちなさった。
『長門本平家物語』

経ケ島 ~須磨 ~明石まで、
ちょとした道行文のようになっていますね。

生田の森→明石まで移動したのであれば、
重衡は、東端から西端まで、一の谷の合戦の戦場を全て目にしたことになります。

重衡は何を思ったのか…。

(但し、搦手の一の谷(須磨)には義経の軍がいたはずで、それをスルーして明石まで逃げ延びるのは不可能な気がするので、物語上の演出なのかもしれません)



盛長の裏切り


重衡・盛長主従を、梶原景時の軍が追いかけます。
 ※延慶本による。(覚一本では、梶原景季と城四郎高家。)

ですが、重衡と盛長の乗っていた馬は名馬だったため、なかなか追いつくことができません。

差が縮まらないので、梶原軍は、重衡の馬の脚を止めるために矢を放ちます。
射たのは延慶本では景時なんですが、覚一本では、景季です。
(漫画では、景季を描きたかったので、景李にしました。)^^;


矢は重衡が乗る馬に命中。

それを見た、重衡の侍・後藤盛長。
あろうことか、主人を置き去りにして逃げてしまいます。

おいっ
Σ( ゚Д゚)

そもそも、盛長が乗っていた馬は、主人である重衡の馬に何かあったときに差し出すための馬(乗替という)です。
それなのに、盛長は、いざその時がきたら、命が惜しくなっちゃって、逃げてしまうのですね。

※盛長は、覚一本では重衡の乳母子ということになっていますが、延慶本・長門本では侍です。
(覚一本などが乳母子とするのは、重衡の悲劇性を強調する為の演出ともいわれています。)



自害を試みる重衡


助かる見込みがない、と悟った重衡は、まずは入水を試みます。
やはり自分の遺骸を敵に渡すのは避けたいところなので、入水が第一選択になるのですね。

三位中将今は力及ばずして、相構て馬を海へぞ打入れんとし給ふ。

三位中将(重衡)は、今はどうにもできず、なんとかして馬を海へ入れようとされた。
『源平盛衰記』


が、遠浅の海だった上に、負傷した馬が動けなかったため、入水は断念。
次に、刀を抜いて自刃を試みます。

そこしも遠浅也ける上、馬も弱て進ざりければ、汀に下立、刀を抜、冑の引合を切、自害し給はんずるにや、

そこも遠浅だった上に、馬も弱っていて進まなかったので、(重衡は)汀に降り立ち、刀を抜き、鎧の引合せを切り、自害しなさるつもりなのだろうか
『源平盛衰記』


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


多くの武士が討死よりも自害を選ぶ理由は、名誉のためもありますが、
自害なら「念仏を唱える」時間の余裕がわずかにできるからという説があります。(※)
※河内祥輔氏『保元の乱・平治の乱』吉川弘文館 2002年


忠度も、討たれる直前に「念仏を唱えるからちょっと待て」と言っていますしこちらの記事)

『建礼門院右京大夫集』でも、資盛の訃報を聞いた右京大夫が、「(戦死だったから)きっと念仏を唱える余裕もなかったことでしょう」と心配する場面があります。(225歌詞書)


当時の人にとって、臨終の時に念仏を唱えることは、往生の為には大事なことだったのでしょう。
この場面で重衡が念仏を唱える描写はありませんが、そのつもりだったのかもしれませんね。

『平家物語』では、重衡が生け捕りになったのちに、南都焼討の罪を背負いながら往生を切望する様子が描かれます。



重衡の生捕りと梶原景時


重衡が自刃しようとしたその時、追ってきた梶原景時が声をかけます。
(延慶本、四部合戦状本)
※覚一本では、声をかけたのは庄四郎高家。

梶原馬より飛び降りつつ、乗替に持たせたる小㓟鈖を以て取り直し、畏りて申しけるは、「是は梶原平三景時と申す者にて候ふ。君の渡らせ御在すと見進らせた参りて候ふ。御供仕り候はん」と申せば、腰刀を差されたり。

梶原は馬より飛び降りて、乗替に持たせていた小長刀を取り直し、恐縮して申したのには、「私は梶原平三景時と申すものでございます。あなたがいらっしゃるのを拝見し、参ったのです。お供をいたしましょう。」
と申したので、(重衡は自害を思い直して)腰刀を(腰に)差しなおされた。
『四部合戦状本平家物語』


景時の誠意ある態度に感じるものがあったのか、
それとも他に考えがあったのか(これについては後述します)

重衡は自刃を思い直して、刀をしまいます。

この場面、覚一本では、重衡は自刃する間もなく、流されるように生け捕られるのですが、
読み本系のほうが、男同士の誠意!みたいでかっこいいですね。

※参考文献:早川厚一氏・佐伯真一氏・生形貴重氏校注『四部合戦状本平家物語全釈』和泉書院



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

ここで、梶原景時、何を思ったか、
主人を置いて逃げた盛長のことを思い出してディスりはじめます。

またそんな部下を持った重衡の不甲斐なさにも言及

「御乗替の逃げ候つるこそ無下に見苦しく覚え候へ。いかにあれ体に候ふ侍をば召し仕はせ給ひけるやあらむ」

(景時のセリフ)
「御乗替(を務める盛長)が逃げたのはひどく見苦しいことだと思われます。どうして貴方はあの程度の侍をお連れになっていたのでしょう」

『延慶本平家物語』


重衡はのちに、「この言葉が一番グサッときた…」と言ったそうです。

重衡、後に宣ひけるは、「其の時景時に詞を懸けられたりしは、縦へば三百の鉾を以て一時に胸を指されけむも、是にはまさらじと覚えたりし」
とぞ宣ひける。

重衡が後でおっしゃったことには、
「その時、景時にかけられた言葉は、例えば三百の鉾でたちまちに胸を刺されることも、これ以上ではないだろう、と思えるくらいだった」
(『延慶本平家物語』)


300の鉾で胸を刺されるより辛かった?!

そ、そんなに…?!!
( ゚Д゚)

(延慶本では、重衡と盛長の関係は乳兄弟ではないのですが)

木曽義仲今井兼平(巻九)平維盛与三兵衛重景(巻十)など、
生死をともにするアツい主従関係が称賛される価値観の時代に、

このあまりにダサい裏切られぶりは、重衡にとって結構プライドが傷つくことだったのかもしれないですね。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

ちなみにこの場面、『源平闘諍録』の景時はちょっと面白くて

「何に袷躰の侍をば召し具せられ候ひけるぞ。景時が様に候はん物を召し具せられん候はんは、此れ程の事候はじ」

(景時のセリフ)
「どうして、あの程度の侍をお連れになっていたのですか。この景時のような者をお連れになっていれば、これ程の事にはなっていないでしょう。」
『源平闘諍録』


部下にするなら、この景時のような者にすべきでしたな!とか言っちゃってます。
景時、なんかいいキャラですよね。
(^^;)

梶原景時に悪役イメージがついてくるのは『吾妻鏡』からで、『平家物語』の景時は、むしろ理想の武士像に近いともいわれています。
(※上横手雅敬氏『源平争乱と平家物語』角川書店 2001年)




重衡の和平の提案


生捕りになった重衡の身柄は、京に送られ、頼朝代官・土肥実平に預けられます。


『平家物語』では、この後重衡は、後白河院に強要されて、
「自らの命と引き換えに、三種の神器を返還するよう」に訴える手紙を、屋島の平家陣に向けて書かされることになります。

(藤原定長が)
「仰せ下されけるは、『八島へかへりたくば、一門の内へいひおくッて、三種の神器を都へ返し入れ奉れ。しからば八嶋へかへさるべし』」と申す。
三位中将申されけるは、
「重衡千人万人が命にも、三種の神器をかへ参らせんとは、内府以下一門の者共一人もよも申し候はじ。(中略)さは候へども、居ながら院宣をかへし参らせむ事、其恐も候へば、申し送ッてこそ見候はめ」とぞ申されける

藤原定長が
「院が仰せ下されることには『
八島へ帰りたければ、一門の内へ申し送って、三種の神器を都へお返し申せ。そうすれば屋島へ返すであろう』との院の御意向です。」
と申した。
三位中将(重衡)は、
「重衡の命、千人万人とでも、三種の神器をお替え申そうとは、内大臣(宗盛)以下一門の者は一人としてけっして申しはしないでしょう。しかし、このまま院宣をお返し申すことも畏れ多いので、屋島へそう申し送ってみましょう」
と申された。
『覚一本平家物語』巻十「内裏女房」

不本意ながらも、重衡の命が、三種の神器と交換する為の交渉道具として使われたのですね。
まさに人質です。


ですが、実はこの手紙、
『玉葉』によれば、院に無理やり書かされたのではなく、重衡が自ら申し出て書いたことになっています。

え?(@ @)

重衡申云、書札副使者〈重衡郎従云々〉、遣前内府之許、乞取釼璽可進上云々、

(藤原定長から聞いた話では)
「重衡が『重衡の郎従である使者を副えて、書状を前内府(宗盛)のもとに遣わし、剣璽(三種の神器)をもらい受けて、進上しましょう』と言ってきた」
『玉葉』寿永3年2月10日


『平家物語』の重衡が、「平家側がまさか三種の神器を手放すことはないだろう」(和平はないだろう)と考えているのに対し、
『玉葉』では「三種の神器を返還する」ことを重衡が自ら提案してるのですね。

実際には、重衡自身が和平を進めようとしていたことは確実です。


■一の谷の戦いが2月7日
 ↓
■重衡入京が、2月9日
 ↓
■重衡が神器返還に向けて動くのが、2月10日

ここ、すごいスピード感です。


もしかすると重衡は、投降した時点でここまで考えていたのではないか、と思えてくるのですよね。
だって重衡ほどの勇将が、自害を邪魔されて、みすみす恥をさらしますかね…?
(´-`).。oO

重衡には、自らの身を敵に預けてでも、やりたいことがあったのかもしれません。


真相はわかりませんが、『平家物語』の受け身な重衡より、
自ら使命をもって投降した解釈の方がかっこいいなぁ…ということで、漫画ではそう描きました。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


捕虜となった重衡の身柄を預かった土肥実平について。

土肥実平は、頼朝の代官として入京し、平家追討軍の搦手(義経軍)に随行してはいましたが、
一の谷直前の2月2日の時点では、平家との和平案に賛同していたといいます。

土肥次郎実平・次官親能<此両人頼朝代官也、相副武士等所令上洛也>或御使被誘仰之儀、甚甘心申云々、

土肥次郎実平・次官親能(この両人は頼朝の代官で、頼朝が武士を副えて上洛させた者である)は、平家に和平の使者を遣わせることに同意していたという。
『玉葉』寿永3年2月2日条


土肥実平は、かつて内裏大番役として在京していた経歴があり、重衡とは旧知の間柄だったという説があります。

※川合康氏「中世武士の移動の諸相ー院政期武士社会のネットワークをめぐって」メトロポリタン史学会編『歴史のなかの移動とネットワーク』桜井書店.2007

重衡の和平の手紙の発案には、和平派だった実平からの働きかけがあったとも考えられています。
※川合康氏『源頼朝』ミネルヴァ書房.2021



和平交渉のゆくえ


この重衡からの神器返還要請の手紙に応えて、
後日、屋島の宗盛から後白河院宛に返事が届きます。(『玉葉』寿永3年2月29日条)

その内容は…

大臣申云、畏承了、於三ケ宝物幷主上女院八条殿者、如仰可令入洛(中略)、御供清宗可令上洛云々

大臣(宗盛)は、「謹んで承りました。三種の神器ならびに主上(安徳天皇)・女院(建礼門院)・八条殿(平時子)については、仰せの通り、入洛させましょう。主上の御供には、清宗を上洛させるつもりです」と言った。
『玉葉』寿永3年2月29日条

(@_@;)!!

「三種の神器を返還し、安徳天皇を京に戻す」

ですって?!

え… いいんですか、宗盛様……!?
( ゚Д゚)


平家側が和平を拒否しつづけたように描く『平家物語』とは全く違いますね!

実際には、平家には神器返還にも和平にも応じるつもりがあったことがわかります。


どうなる和平交渉?!続きは後日。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

次回は、屋島の平家。
悲しみにくれる平家一門にさらなる悲劇が…!(維盛様も再登場)



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※出典・参考文献/『玉葉』国書刊行会/『吾妻鏡』新訂増補国史大系、吉川弘文館/早川厚一氏・佐伯真一氏・生形貴重氏校注『四部合戦状本平家物語全釈』和泉書院/福田豊彦氏・服部幸造氏『源平闘諍録全注釈』講談社/『長門本平家物語』国書刊行会/『延慶本平家物語全注釈』汲古書院/『屋代本高野本対照平家物語』新典社/『源平盛衰記』中世の文学、三弥井書店/『平家物語』新日本古典文学大系、岩波書店/『平家物語』新編日本古典文学全集、小学館/『平家物語大事典』東京書籍/『平家物語研究事典』明治書院/『平家物語図典』小学館/冨倉徳次郎氏『平家物語全注釈』角川書店/杉本圭三郎氏『平家物語全訳注』講談社/ →その他参考文献、発行年等詳細はこちら

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