富士川の戦い 中編【平維盛まんが 8】 なぜ維盛が大将軍?『山槐記』『玉葉』『吉記』
治承四年十月、駿河国に着いた維盛たちの追討使。そこで待ち受けていた現実は…
※漫画はえこぶんこが脚色しています。
登場人物
平維盛 たいらのこれもり平清盛の長男[重盛]の長男。
藤原忠清(伊藤忠清) ふじわらのただきよ(いとうただきよ)
小松家家人。維盛の乳母夫(めのとふ)。
鉢田の戦い
「富士川の戦い」というと、治承寿永の内乱における最初の平家vs源氏の全面衝突であり、維盛vs頼朝の戦いというイメージがありがちです。
けれども、実際の富士川の戦いは、少し事情が違ったようです。
富士川の戦いの前哨戦とも言えるのが、駿河目代・橘遠茂と甲斐源氏(武田信義)が戦った「鉢田の戦い」です。
駿河国は平宗盛の知行国であり、目代・橘遠茂は駿河国の武士団を統率していました。
維盛たちの追討使が駿河に着く直前に、橘遠茂は二千騎を率いて甲斐に進軍。
10月14日、武田信義らの甲斐源氏と戦いました。
以仁王の乱の時もそうであったように、維盛率いる正式な追討使が到着する前に、家人の軍が勝利への道筋をつけておく…
そういう算段もあったようです。
ところが、橘遠茂は大敗。これは追討使にとって大きな誤算となりました。
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また、東国の平家方、石橋山で頼朝を破った相模の大庭景親、伊豆の伊東祐親らの勢力はまだ健在でした。
彼らは維盛たちの追討使に合流しようと進軍を試みましたが、駿河国の周りは既に源氏によって抑えられていたため合流するすべがなく、大庭景親は退散し、伊東祐親も生け捕られてしまいます。
アテにしていた東国の平家方の勢力が壊滅してしまったことで、結局、維盛たちの追討使は、単独で戦いに挑まなければならなくなったのです。
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なお、この時、維盛たちが対峙していたのは、甲斐源氏の武田信義です。『吾妻鏡』『平家物語』では、頼朝と連携しているように描かれる甲斐源氏ですが、厳密には、それぞれは独立した勢力で、頼朝はこの成り行きを見守っていたにすぎないと考えられています。
追討使と駆武者
「宣旨を賜った追討使なんだから、平家家人の先鞭なんてアテにせずに、本隊が堂々と突っ込めばいいじゃないか」と思うかもしれません。
追討使本隊には、そうもいかない理由がありました。
それは、構成員の問題です。
官軍である追討使は、宣旨を理由に、進軍しながら合法的に軍兵を徴発することができました。そうして、その場かぎりの戦力として駆り出された兵を駆武者(かりむしゃ)といいます。
追討使本隊を構成する兵の多くはこの駆武者であり、戦意が高くはなかったのです。
平家が度々、「家人の精鋭軍が先に戦場に向かってから、正式な追討使が追いかける」という二重の進軍を行う理由は、
「体裁としては、宣旨に基づいた追討使が勝利した形にするものの、実質は、家人による精鋭軍が先に戦って、勝利へのお膳立てをしておく」という形をとる必要があったからだと考えられます。
以仁王の乱はそれが上手く機能した例ですが、今回の甲斐源氏との戦いでは全く通用しませんでした。
反乱軍の勢いは、平家の予想をはるかに越えていたのです。
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さらに今回は、駆武者の徴発自体も難航しました。
治承三年の政変で国主や国司が平家サイドに代わった地域では、平家への反発もあって追討使に協力しない者も多く、
また、一旦は従軍した駆武者も、従来の家人とは違って平家への忠義はありませんから、状況が不利と見れば簡単に戦線離脱します。
思うように兵が集まらないまま駿河についた追討使でしたが、富士川での対陣中にもさらに相次いで離反が起こる有様で、『玉葉』によれば、最終的には1,000~2,000騎しか残っていなかったといいます。
そう、水鳥が飛ぼうが飛ばなかろうが、維盛軍に勝ち目などなかったのです、最初から。
(水鳥の話は次回)
それでも維盛自身は、撤退することは考えておらず、あくまでも開戦するつもりだったらしいのですが……。(『玉葉』)
どうなる?追討使
どうする?維盛!
続きは次回、富士川の戦い(後編)で。
(って、結果はわかってるんですが…)
なぜ、維盛が総大将だったのか
富士川の戦いといえば、維盛。
維盛といえば、富士川の戦い。
そして、世間一般に知れ渡っているイメージは、これ↓じゃないでしょうか。
そして、これまた本当によく聞く論調なのですが、
「無能をリーダーにするとこうなる駄目な例」
………
……ちょ、
………だれが無能だって?
( ̄‐ ̄*)
という維盛ファンの嘆きはさておき、この時点で維盛に軍事面での実績がなかったことは事実です。それでも、重要な東国追討使の総大将に維盛が選ばれたのには理由がありました。
まずは、藤原(伊藤)忠清の存在です。
治承三年の政変で上総介に就任した忠清は、東国の平家家人を統率する立場にありました。したがって、今回の東国の状況については忠清が当たるべきとされ、忠清とニコイチである維盛(※前回参照)が大将軍となるのは必然でした。
また今回の東国遠征軍の主力は小松家であり、宗盛や知盛の預かる平家主流の戦力は投入されていません。逆にいうと、小松家のみの戦力で十分と考えられていたともいえます。
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また、維盛は出立前に右近衛大将である九条良通から馬を贈られる(『玉葉』)など、追討使は朝廷の形式に則っていた面もありました。それに、行く先々で駆武者や兵糧を徴発していく為には、大将軍には正当な権威が必要です。
小松家のTOPであり右近衛少将である維盛が任命されたのは、順当な人事だったのではないでしょうか。
(たまに「なんで、武闘派でもない貴族風の維盛が…」みたいに言われることもありますが、ゴリゴリの脳筋なら務まるっちゅうものでもないんです。)
また、前述のとおり、橘遠茂・大庭景親・伊東祐親などの有力家人の働きが期待できたため、当初は、維盛自身が戦場の前線に直面する想定はなかったかもしれません。
しかし現実は、漫画にも描いたように、当初の想定は悉く覆され、富士川に布陣した時点でもう、追討使は戦える状況ではなくなっていました。
これもう、維盛個人の能力がどうこうという次元じゃないですよね…
………誰が無能だって? (二回目)
(T‐T) しくしく
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次回、富士川の戦い(後編)【治承四年 維盛二十二歳】