武器は作法と己の美貌!【平維盛まんが 1】 イケメンは史実?『玉葉』
平家の嫡孫として『平家物語』でも描写の多い美貌の公達・平維盛。恵まれた出自ではなかった彼が、貴族社会で認められていく様子を漫画でどうぞ。
登場人物
平維盛 たいらのこれもり平清盛の長男[重盛]の長男。中宮権亮。(近衛少将兼任)
平重衡 たいらのしげひら
平清盛の五男。徳子の同母弟。中宮亮。(左馬頭兼任)
維盛、中宮権亮に(14歳)
承安二年(1172)、平清盛の娘・徳子が高倉天皇の中宮に立った時、中宮周辺の事務を司る中宮職という役所が設けられました。
慈円が「皇子ヲ生セマイラセテ、イヨイヨ帝ノ外祖ニテ世ヲ皆思フサマニトリテント思ヒケルニヤ」(『愚管抄』)と考えたように、徳子は平家の希望を一身に背負って入内したわけですから、中宮の周りで決して粗相があってはいけません。
その点で、承安二年の中宮職の人事は、完璧とも言えるものでした。
●まず長官である中宮大夫には、藤原隆季(ふじわらのたかすえ)を。
彼の家系は、善勝寺流と呼ばれる院の近臣で、清盛の祖父正盛以来、平家とは持ちつ持たれつの長い付き合い。また、平家とは姻戚関係でも結ばれています。
●中宮権大夫には、平時忠(たいらのときただ)。
清盛の正妻・時子の弟であり、後白河院の寵妃・建春門院滋子の兄。徳子にとっては母方の叔父にあたります。
時忠は平氏ですが、清盛の伊勢平氏とは別の系統で、堂上平氏と呼ばれる昔から京に根付いた文官の家系です。弁官を長年務めた経験から、宮中の事務にも詳しい。
この二人は、平家とも縁が深い人物である上に、宮中のしきたりなどにも通じています。
●次官である中宮亮には平重衡(たいらのしげひら)。
清盛の五男で、徳子の同母弟。
●中宮権亮には、平維盛(たいらのこれもり)。
清盛の長男[重盛]の長男で、徳子には甥にあたります。
この二人は徳子とも歳が近く、彼らが側に伺候していることは、徳子には心強かったはず。
また、見目がよく、気遣いもできる重衡と維盛は、後宮という女性が多い職場でもウケがいいこと間違いなし。
対外的にも徳子にとっても万全の体制、絶妙な人事ですね!
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
当時16歳と14歳の重衡と維盛。
二人は平家若手のホープであり、今後、東宮亮(東宮権亮)、蔵人頭・・・と類似した経歴を辿っていくことになります。
軍事的にも、平家主流の武士団を率いる重衡と、小松家の武士団を率いる維盛、というように、平家の両輪として戦場に赴いていくことになるのですが、それはまた後の話・・・。
維盛の処世術 -武器は己の美貌!
平維盛は、平清盛の長男[重盛]の長男。つまり、系図の上では嫡流にあたります。
ですが、母親の身分が低かったため、初めから嫡男扱いされていたわけではありませんでした。
維盛には弟が複数いますが、母親が違います。
当時は母親の身分(=母方の実家の実力)が、出世に大いに影響しました。
その証拠に、仁安二年(1167)維盛が九歳で従五位下に叙されるよりも一年早く、すぐ下の異母弟・資盛は六歳で従五位下に叙されています。
さらにいうと、その下の弟・清経の方がはるかに恵まれており、この時既に五歳で正五位下です。
実は清経の母・経子こそが重盛の正妻であり、当初、重盛の嫡男とされたのは維盛ではなく、この清経だったようです。
昇進レースのスタート地点では、二人の弟に後れを取った維盛でしたが、彼は余人が決して真似できない卓抜した武器を持っていました。
それは・・・
類まれなる美貌!
上記の漫画は、玉葉承安二年2月12日条を元にしているのですが、献杯を務めた人物は他にもいるのに、なぜか維盛の箇所にだけ「作法優美人々感歎」とわざわざ一言添えてあります。
『玉葉』の筆者・九条兼実は、別の項でも
「維盛容顔美麗、尤足歎美」(安元2年1月23日条)
「少将維盛、重盛卿子、衆人之中、容顔第一也」(承安5年5月27日条)
と書き留めているほど。
維盛の美貌は、よっぽど際立っていたのでしょう。
また、中宮徳子に仕えた女房・右京大夫も、維盛の容姿について、
「絵物語いひたてたるやうにうつくしく見えし」
「際ことにありがたかりし容貌用意、まことに昔今見る中に、例もなかりしぞかし」
と絶賛しています。
(『建礼門院右京大夫集』6・7・215・216歌詞書)
上記はいずれも、維盛と同時代に生き、維盛の姿をナマで見たことがある人物の証言ですから、維盛の美貌はガチの史実といっていいでしょう。
(もちろん、後世の創作物『平家物語』等でも、維盛は絶世の美男として描かれています)
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ところで、維盛はただ美しいだけではありません。
笛にも優れ、歌も歌えるし、舞もできる。(『玉葉』)
美しく、礼儀作法・歌舞音曲にソツのない維盛は、新興勢力の平家にとって、アイコンとして貴族社会に送り出せる恰好の人材だったようです。
そんな彼に廻ってきた一世一代の晴れ舞台…それは、
後白河法皇の五十の御賀にて披露される「青海波舞」でした。
次回は『平家物語』より、維盛の青海波舞(安元二年、維盛18歳)です。