三草山の戦い!(後編)【平維盛まんが29】|『平家物語』『吾妻鏡』



寿永3年2月5日、丹波と播磨の国境・三草山を守備する資盛たち。義経軍の福原への進軍を阻止することはできるのか? 厳しい戦況の中、資盛の決断は…。


<『平家物語』巻九、『吾妻鏡』元暦元年(寿永3年)2月20日条より> 


※漫画はえこぶんこが脚色しています。  

◆解説目次◆ ・登場人物
・和平の手紙
・和平の手紙は謀略だったのか
・資盛たち、屋島へ
・師盛の報告
・生田森・一ノ谷の戦い

登場人物

平資盛 たいらのすけもり
平清盛の長男[重盛]の次男。

平有盛 たいらのありもり
平清盛の長男[重盛]の四男。資盛の弟。

平師盛 たいらのもろもり
平清盛の長男[重盛]の五男。資盛の弟。

平忠房 たいらのただふさ
平清盛の長男[重盛]の六男。資盛の弟。

和平の手紙。


『吾妻鏡』によれば、寿永3年2月6日、「修理権大夫」(※)より、平家に和平をもちかける手紙が届いていたといいます。

(※『吾妻鏡』による。修理大夫とすれば、院近臣・藤原朝信)


去六日修理権大夫送書状云、
「依可有和平之儀、来八日出京、為御使可下向、奉勅答不帰参之以前、不可有狼藉之由、被仰関東武士等畢。又以此旨、早可令仰含官軍等者。」

【訳】
去る2月6日、修理権大夫が(平家に)書状を送って言うには、

「和平の相談があるので、来る八日に出京し、(後白河院からの和平の)御使いとして下向します。私が、安徳天皇の勅答を承って、京に帰参するまでは、狼藉をしてはならないという由を、関東の武士たちに伝えてあります。ですから平家も、この旨を軍にお伝えください」

(『吾妻鏡』元暦元年(寿永3年)2月20日条)


え?(@_@)

1月26日には既に平家追討の宣旨が出ているのに、
平家追討軍はもう福原に向かっているのに、
今更和平なの?

2月6日って、一ノ谷の戦いの前日ですよね?

どういうこと?(@_@)

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆





和平の手紙は謀略だったのか?


上記の手紙の話が載っているのは、『吾妻鏡』の元暦元年(寿永3年)2月20日条。

一ノ谷の戦いの後、
屋島に逃れた宗盛が、後白河院に宛てて書いた手紙の中の一節です。

宗盛の言葉には、続きがあります。

「相守此仰、官軍等本自無合戦志之上、不及存知。相待院下向処、同七日、関東武士等襲来于叡船之汀、依院宣有限、官軍等不能進出、各雖引退、彼武士等、乗勝襲懸、忽以合戦、多令誅戮上下官軍畢。此條何様候事哉。子細尤不審。若相待院宣可有左右之由、不被仰彼武士等歟。将又雖被下院宣、武士不承引歟。若為緩官軍之心、忽以被廻奇謀歟。」

(宗盛の手紙)
この仰せ(和平交渉をしたいから、攻撃するなという指示)を守って、平家の軍たちはもともと合戦をする意思がなかった上に、何も知らず院の御使いの下向を待っていたところ、同七日、関東の武士らが帝の乗る船がある汀に襲来しました。

(平家は)院宣によって制限があったので、進み出て戦うこともできず、それぞれ引きのいたのですが、関東の武士たちは、勝ちに乗じて襲い掛かり、たちまち合戦となり、関東武士は、平家軍の兵を上から下まで誅殺しました。これは一体どういうことなのでしょうか。子細は全く不審です。

もしかして院宣を待ってから行動するようにという御命令を、武士たちに命じられなかったのですか。それとも、院宣を下されたけれども、武士たちが承知しなかったのですか。それとも、
平家軍の心を油断させる為に、にわかに奇謀をめぐらされたのでしょうか。

(『吾妻鏡』元暦元年2月20日条)


宗盛の主張では、
平家は、和平の話を信じて、合戦の準備もしていなかったし、襲われた時も一旦は引き退いた。それでも、関東武士らは襲ってきて、平家の多くの人々を誅殺した。」

さらに続けて、
「和平の話を関東武士たちに伝えていなかったのですか?
それとも、院宣を関東武士たちが無視したのですか?
それとも、そもそもが、平家を油断させるための謀略だったのですか?


とまで言っています。

宗盛の怒りと無念が伝わってきますね。


この宗盛の言葉が真実なら、平家は、偽の和平の手紙を信じてしまった為に、「騙し討ち」にあったということになります。

「一ノ谷の戦い」では、
兵の数では、はるかに鎌倉軍を上回っていたにも関わらず、
平家があっさり一刻(2時間)ほどで敗けてしまっていることからも、

平家はまともに戦えていなかったのではないか。
その原因の一つが、この「和平の手紙」だったのではないか。とする説もあります。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

とはいえ、『吾妻鏡』に載っている手紙は、宗盛が後白河院に対して抗議したという文面なので、平家主観の内容になっている可能性もあります。

朝廷側に、本当に和平交渉をするつもりがあったのかどうかは、今となってはわかりませんが、
結局和平は実現されず、平家は、この直後の一ノ谷の戦いで、一門から多くの犠牲を出すことになるのです。




資盛たち、屋島へ


『覚一本平家物語』では、三草山の戦いに負けた資盛・有盛(・忠房)は、
高砂から舟で屋島に向かったことになっています。

源氏はおちゆくかたきをあそこにおッかけ、ここにおッつめせめければ、平氏の軍兵やにはに五百余騎うたれぬ。手負ふ者どもおほかりけり。
大将軍小松の新三位中将、同少将、丹後侍従、面目なうや思はれけん、播磨国高砂より舟に乗ッて、讃岐の八島へ渡り給ひぬ。

源氏は逃げていく敵をあそこに追いかけ、ここに追い詰め攻めたてたので、平氏の軍兵はたちまち五百余騎が討たれてしまった。負傷したものも多かった。
大将軍小松新三位中将(資盛)、同少将(有盛)、丹後侍従(忠房)は、面目ないと思われたのだろうか、播磨国高砂から船に乗って、讃岐の八島(屋島)へ渡られた。

『覚一本平家物語』巻九「三草合戦」

延慶本では、逃走ルートの地名がちょっと異なります。

新三位中将は追ちらされたる事を無面目被思ければにや、福原へも返り給はで、小馬の林より小舟に乗、福浦(福良)の渡をして淡路の由良へ着給ふ

 『延慶本平家物語』第五本「源氏三草揃并一谷追落事」


延慶本の場合、屋島へ戻る途中に、淡路島を経由しているところは、維盛の場合(前々回)と同じですね。


こうして、資盛・有盛(・忠房)は、屋島に逃れることができましたが、

兄弟から一人離れて福原に戻った師盛は、
この後、一ノ谷の戦いで、壮絶な最期を迎えることになるのです。





師盛の報告


『平家物語』では、福原の平家本陣に、三草山の敗戦の報告をしたのは、五男・師盛となっています。

…師盛、がんばった!(T-T)

覚一本には師盛のセリフはないのですが、
延慶本では、師盛自身が、宗盛に対し、防御を固めるように進言しています。

舎弟備中守師盛、平内兵衛清家、あくる五日大臣殿に参て、三草山は去る夜の夜中計に源氏の軍兵に散々に追散され候ぬ、猶山へ手を向らるべくや候はむと被申たりければ、大臣殿大に驚給て東西の木戸口へ重て勢をつかはさる

弟・備中守師盛と平内兵衛清家は、あくる五日、大臣殿(宗盛)の前に参上して、「三草山は去夜の夜中に、源氏の軍兵に散々に追い落とされてしまいました。さらに山の手へ軍勢を向けられるべきでしょうか」と申されたので、大臣殿(宗盛)は、おおいに驚きなさって、東西の木戸口(生田森と一ノ谷)へ重ねて軍勢を派遣される。

『延慶本平家物語』第五・二十「源氏三草山幷一谷追落事」


師盛、がんばった!(T-T) 2回目

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「あくる五日」とあるのは、『平家物語』では三草山の戦いが2月4日だから。
(『吾妻鏡』では、三草山の戦いが2月5日


さて、ここでちょっと気になるのは、先程紹介した『吾妻鏡』にある和平の手紙です。

和平の手紙が福原に届いたのが、『吾妻鏡』がいうように、一ノ谷の戦いの前日の2月6日だとすると、

時系列を考えると、この時点でもう既に、
三草山の資盛軍は、義経軍にボコされていますよね。


……ん?
和平とは?(@ @)


さすがに、
三草山で五百人の兵が討たれた(『平家物語』による)
という話を聞いた後に、
今更「和平です」と言われて信じるか…というと、ちょっと疑問ですよね。


三草山と福原は、だいぶ離れていますので、
(地図上で、直線距離だとそこまで遠くないように見えますが、実際には、六甲山地で隔てられているので、移動距離は長い)

福原の平家首脳陣が三草山の状況にまだ気づいていなかったとしたら、
師盛の報告がめちゃめちゃ重要な役割を果たすことになりますね。


(和平の手紙の話がない『平家物語』と、『吾妻鏡』の時系列を照合することに、あまり意味はないかもしれませんが)

師盛の報告が間に合っていたならば、平家は辛うじて、(和平の誘いに油断しきることなく)、ギリギリ戦闘態勢に入ることができた

……かもしれないですね。
(ということに、漫画ではしています ^^)


師盛、がんばった!! 3回目



生田森・一ノ谷の戦いへ


三草山の敗戦を受けて、宗盛は、東西の両木戸口と山の手に軍兵を配置します。

東の木戸口(生田森)…平知盛・平重衡(vs 源範頼)
西の木戸口(一ノ谷)…平忠度など  (vs 源義経)
山の手(六甲山南西部) …平通盛、平教経など(vs 多田行綱)


メンバーを見てもわかるように、東の木戸口である生田森が、ガチの総大将対決
源平ともに、配置された軍勢も最多の、メインの戦場なのですが、

なぜか搦手にすぎない「一ノ谷」が戦いを代表する呼称となっています。

『平家物語』には、「一ノ谷」という地名が、あたかも福原一帯の広域を差すかのような地名の混同がみられます。

そのため、史学分野では、実状に即して「生田の森・一の谷の戦い」という呼称で呼ばれることもあります。


なぜ、「一ノ谷」という地名が、戦いの全貌を食ってしまうようなことになったのかについては、下記のような説があります。

■戦後すぐ鎌倉に戻った範頼(@生田森)に比べて、京に留まった義経(@一ノ谷)の方が、都の人々に自身の武勇伝を多く語ることができたから。

■勝敗を決した山の手からの奇襲(※)を成功させたのは、搦手軍だったから。
(※いわゆる鵯越え←実行者は多田行綱。三草山の戦いの後、義経軍と分岐。詳細は後日。)

※参考文献 鈴木彰氏「<一の谷合戦>の合戦空間『平家物語の展開と中世社会』(汲古書院)2006年
川合康氏「生田の森・一の谷合戦と地域社会」『院政期武士社会と鎌倉幕府』(吉川弘文館)2019年
早川厚一氏「『平家物語』における西国合戦譚について」(山下宏明氏編『軍記物語の生成と表現』)(和泉書院)1995年



というわけで、
次回は、本当はメインの主力戦だった東側、「生田森の戦い」です!





◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

次回、「一ノ谷の戦い(1) 生田森の攻防!」
重衡大活躍の回です。

(まだ生け捕られませんよ )(^^)


更新は、2月末~3月はじめの予定です。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



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※出典・参考文献/『玉葉』国書刊行会/『吾妻鏡』新訂増補国史大系、吉川弘文館/早川厚一氏・佐伯真一氏・生形貴重氏校注『四部合戦状本平家物語全釈』和泉書院/福田豊彦氏・服部幸造氏『源平闘諍録全注釈』講談社/『長門本平家物語』国書刊行会/『延慶本平家物語』勉誠社/『屋代本高野本対照平家物語』新典社/『源平盛衰記』藝林舎/『平家物語』新日本古典文学大系、岩波書店/『平家物語』新編日本古典文学全集、小学館/『平家物語大事典』東京書籍/『平家物語研究事典』明治書院/『平家物語図典』小学館/冨倉徳次郎氏『平家物語全注釈』角川書店/杉本圭三郎氏『平家物語全訳注』講談社/ →その他参考文献、発行年等詳細はこちら


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