篠原の戦いと、平家山門連署!【平維盛まんが 14】 『平家物語』


義仲の京への進軍を目前に、宗盛の取った策は…

<『平家物語』巻七/『長門本平家物語』巻十四より> 
平家物語の倶利伽羅峠の戦い、篠原の戦い、平維盛
平家物語、平維盛、篠原の戦い
平家物語、平教盛、平資盛、山門連署
平維盛と平資盛と平重衡と平知盛
平家物語の篠原の戦い、平維盛と平通盛と平資盛
平家物語の平貞能と平資盛
平家物語の山門連署、平重衡と平知盛と平資盛
※漫画はえこぶんこが脚色しています。  

◆解説目次◆ ・登場人物
・篠原の戦い
・平貞能の帰還
・平家山門連署
・桓武平氏
・義仲、迫る
 

登場人物

平維盛 たいらのこれもり
平清盛の長男[重盛]の長男。

平資盛 たいらのすけもり
平清盛の長男[重盛]の次男。維盛の弟。

平貞能 たいらのさだよし
清盛、重盛、資盛の家人。

篠原の戦い

倶利伽羅峠の戦いに敗れた維盛たちの追討使は、加賀・篠原で再起を図り、
寿永2年(1183)6月1日、進軍する木曽義仲の軍と全面衝突します。(篠原の戦い)

かなりの激戦だったようで、平家方の多くの家人が討死しました。
高橋長綱、武蔵三郎左衛門有国(伝未詳)、
俣野景久(大庭景親の弟)、伊東祐清(伊東祐親の子)、難波常遠など。

有名な、斎藤実盛(老武者と侮られぬよう白髪と髭を黒く染めていた)の最期も、この篠原の戦いにおける逸話です。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

維盛は義仲の追討を諦め、ついに加賀から撤退します。

この撤退はまさに「命からがら」な状況だったようで、かなり悲惨な有様だったことが『玉葉』にも記されています。

四万余騎之勢、帯甲冑之武士、僅四五騎許、其外、過半死傷、其残皆悉棄物具、交山林、大略争其鋒甲兵等、併以被伐取了云々、

(四万余騎いた勢の中で、甲冑を帯びていたものはわずか四五騎ばかりで、その他は、過半数が死傷し、残った者たちは物具を棄てて山林に逃げ、戦った甲兵等は討ち取られた。)
(『玉葉』寿永二年六月五日条)

寿永二年の北陸遠征で、平家は多くの家人と兵を失ってしまいました。


平貞能の帰還

まさかの官軍の敗報に衝撃を受けた都の人々の、一縷の望みは、九州から平貞能が大軍を引き連れて戻ってくるという噂でした。

(平貞能は、この漫画にもちょくちょく登場していますが、清盛→重盛→資盛と仕える家人で、資盛を軍事的に補佐する人物です。資盛の乳母夫という説も。)

貞能は養和元年より九州に出兵し、菊池隆直の反乱を平定し従属させていました。

ところが、6月18日貞能が入京した時には、数万とも期待されていたその兵の数は、実際には千騎ほどであり、都の人々を落胆させたといいます。(『吉記』)

平家山門連署

義仲が都に迫るなか、最後の砦となるのが、今までどちらかと言えば平家寄りの態度を示してきた比叡山延暦寺でした。

寿永2年(1183)7月、宗盛は、延暦寺を味方につける為、平家公卿の連署を添えた嘆願書を提出します。(平家山門連署

『平家物語』に載っているこの嘆願書、なかなか面白いので、抜粋します。

(前略)
方に今、伊豆国の流人源頼朝、其身の咎を悔いず、かへッて朝憲を嘲る。
しかのみならず、奸謀にくみして同心をいたす源氏等、義仲、行家以下党を結ンで数あり。

隣境遠境数国を掠領し、土宜土貢万物を押領す。
これによッて、或は累代勲功の跡をおひ、或は当時弓馬の芸にまかせて、速やかに、賊徒を追討し凶党を降伏すべき由、いやしくも勅命をふくんで頻りに征罰を企つ。

爰に魚鱗鶴翼の陣、官軍勝利をえず、星旄電戟の威、逆類勝つに乗るに似たり。
若し神明仏陀の加被にあらずは、争でか反逆の凶乱をしづめん。

是を以て一向天台之仏法に帰し、不退日吉之神恩を憑み奉る耳。
何に況や、忝く臣等が曩祖を思へば、本願の余裔といッつべし。弥崇重すべし、弥恭敬すべし。
自今以後山門に悦びあらば一門の悦とし、社家に憤あらば一家の憤として、おのおの子孫に伝へてながく失堕せじ。

(中略)
仍て当家の公卿等異口同音に礼をなして祈誓如件。

従三位行兼越前守 平朝臣通盛
従三位行右近衛中将 平朝臣資盛
正三位行左近権中将兼伊予守 平朝臣維盛
正三位行左近衛中将兼播磨守 平朝臣重衡
正三位行右衛門督兼近江遠江守 平朝臣清宗
参議正三位皇太后宮大夫兼修理大夫加賀越中守 平朝臣経盛
従二位行中納言兼左兵衛督征夷大将軍 平朝臣知盛
従二位権中納言兼肥前守 平朝臣教盛
正二位行権大納言兼出羽陸奥按察使 平朝臣頼盛
従一位 平朝臣宗盛

寿永二年七月五日      敬白



【現代語訳】

(前略)
まさに今、伊豆国の流人、源頼朝が、その身の咎を悔いることなく、逆に朝廷の法を嘲っています。それだけでなく、奸謀に賛同する源氏らは、義仲、行家以下、徒党を組んで、隣国遠国の数刻を掠領し、産物年貢を押領しています。

このため平家は、代々の勲功の例にならい、弓馬の芸によって、速やかに賊徒を追討し凶党を鎮圧するよう勅命を受けて、何度も征伐を企てました。
しかしここに至って、魚鱗鶴翼の陣をしいても官軍には不利で、星旄電戟の威をもって戦っても、逆賊が勝つような状況です。
もし神仏の助けを得られないのであれば、どうして反乱を鎮圧することができるでしょう。それゆえに、ひたすら天台の仏法に帰依し、日吉の神恩をお頼み奉るのです。

ましてや、畏れ多くも、我らの先祖を思うと、延暦寺建立の発願をされた桓武天皇の子孫です。いよいよ崇め、いよいよ敬わなければなりません。

今後、比叡山に悦びがあれば、平家一門の悦びとし、日吉神社に憤ることがあれば、平家一家の憤りとして、子孫に伝えて永く忘れないようにしましょう。

(中略)
当家の公卿らが声をそろえて祈誓すること、このとおりであります。

覚一本『平家物語』巻七「平家山門連署」

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

日吉神社を氏社とし、延暦寺を氏寺とするというかなり下手に出た姿勢で、追い詰められた平家の、悲壮感漂う哀願といった内容となっています。

内容はともかく。
最後の署名部分の、平家公卿の名がずらりと並ぶ字面は、平家ファンとしては眺めているだけでも「かっこいいっ」てなりますね。(ならない?)

公卿というのは、三位以上(または参議以上)の高官のことをいいます。
なので、ここに署名がある人が、当時の平家の中枢だったということになります。

このメンバーに資盛が入っているところが、当時の彼の勢いを表していますね。(その辺の話は次回)


(※ちなみに、『平家物語』「山門連署」に書かれている官職は、『公卿補任』と照らし合わせると、若干間違ってはいるみたいです。ここは、覚一本の原文どおりにしました。)


連署に込めた平家の思いは、延暦寺に届いたのか。

平家ファンとしては、平家公卿の合同直筆サイン(?)なんて貰った日には、速攻で味方になっちゃうわ!と思うのですが、現実はそう甘くはなかったようです。(そりゃそうだ)

平家が連署を提出するよりも先に、義仲が延暦寺に対して協力を要請する牒状を提出しており、既に延暦寺は源氏方につくことを決めていたのでした。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

この平家山門連署、ドラマチックで創作っぽいエピソードにも見えますが、史実です。
『吉記』『百錬抄』『六代勝事記』に、平家が比叡山に連署を送ったことが記されています。

伝聞、平家公卿十人連署名、内大臣已下也、以日吉社為氏社、以延暦寺為氏寺、可奉帰仰之由、書起請状、被送衆徒中云々、若是密事歟、聞此状悲涙難抑
(『吉記』寿永二年七月十二日条)

この話を聞いた『吉記』の著者・吉田経房は、「悲涙抑え難し」といい、追い詰められた平家の立場に同情しています。

※何回か話題に出てきましたが、吉田経房は、維盛が亡くなった後で、遺された維盛の正妻(新大納言局)と再婚する人物です。

桓武平氏

『平家物語』の「平家山門連署」の中で、宗盛は、自分たちが桓武天皇の子孫であることを強調しています。

(系図をどうぞ)

※参考…日本史総覧(東京法令出版)


宗盛の場合は、清盛(伊勢平氏)時子(堂上平氏)の間の子なので、ハイブリッドな桓武平氏ですね。

ちなみに、'22大河ドラマでも源氏方で活躍中の、北条、畠山、上総、三浦、和田、…実はみんな桓武平氏を名乗っています。(自称・桓武平氏を含む)
「北条」「畠山」「上総」は家名で、彼らも、氏(うじ)は「平」を使っているのですね。

義仲、迫る。

延暦寺を味方につけた義仲は、七月十一日、近江国勢多まで進軍します。
いよいよ、都が脅威にさらされる事態になり、平家は決断を迫られることになります。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


次回、宗盛と資盛の間に亀裂?

『吉記』より、京都・最後の防衛戦線【寿永二年 維盛二十五歳】


次回更新は、六月末です。


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※参考文献/『長門本平家物語』勉誠出版/『玉葉』国書刊行会/『山槐記』『吉記』増補史料大成、臨川書店/『平家物語』新日本古典文学大系、岩波書店/『平家物語』新編古典文学全集、小学館/『平家物語大事典』東京書籍/『平家物語図典』小学館/冨倉徳次郎氏『平家物語全注釈』角川書店/杉本圭三郎氏『平家物語全訳注』講談社/川合康氏『源平の内乱と公武政権』吉川弘文館/高橋昌明氏『平清盛 福原の夢』講談社 /元木泰雄氏『治承・寿永の内乱と平氏』吉川弘文館/ 永井晋氏『平氏が語る源平争乱』吉川弘文館/ →その他参考文献、発行年等詳細はこちら

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