平貞能の離脱と、資盛の手紙【平維盛まんが 24】『玉葉』『吾妻鏡』『平家物語』
<『玉葉』寿永2年11月12日条、『吾妻鏡』文治元年7月7日条、『平家物語』巻七、八より>
※漫画はえこぶんこが脚色しています。
登場人物
平資盛 たいらのすけもり平清盛の長男[重盛]の次男。維盛の弟。
平貞能 たいらのさだよし
小松家家人。資盛の乳母夫とも。
資盛から後白河院への手紙
都落ち後の資盛が、院近臣・平知康宛てに(つまり後白河院に対して)送った有名な手紙があります。
その内容は
何が有名って、まぁ、文面がラブレターのようだから、よく後白河院と資盛との男色ネタに使われるのですが (ーー;)
(ただ、漢文の表現って大体大袈裟に見えるので、これくらいの文脈はよくあることかもしれません…)
この手紙、実は結構、謎が深かったりします。
【謎1】降伏を知らせる手紙だった?
まず、手紙が送られた時期なのですが、『玉葉』では、寿永2年11月12日条に「伝聞、資盛朝臣送使於大夫尉知康之許」と書かれています。
もし、時系列通り、11月初め頃に資盛が書いた手紙なのだとすれば、これは、平家が屋島に移動した後で、さらには水島合戦(詳しくは次回)よりも後の話になります。
どういう状況で、資盛はこんなこと言い出したんだろう?という疑問が湧きますね。
(ただ、手紙が届くまでにタイムラグがあることや、兼実が伝え聞いたタイミングがありますので、必ずしも11月初めの話かどうかはわかりません。)
(ただ、手紙が届くまでにタイムラグがあることや、兼実が伝え聞いたタイミングがありますので、必ずしも11月初めの話かどうかはわかりません。)
そして、さらに問題になってくるのは、「そもそも資盛は屋島に移動していたのかどうか」です。
前回記事にあったように、資盛には九州の時点で投降していたという説があります。
『玉葉』によれば、都ではこの話が実説であると受け取られていたことがわかります。
前回記事にあったように、資盛には九州の時点で投降していたという説があります。
『玉葉』によれば、都ではこの話が実説であると受け取られていたことがわかります。
もしも資盛が、平家の屋島行きには同道せず、九州で投降していたのだとしたら、
(時期ははっきりはわかりませんが、寿永2年10月~閏10~11月のどこか)
ちょうどこの手紙は、その頃に書かれたことになり、そうすると、手紙の内容が全く違う意味に見えてきますね。
ちょうどこの手紙は、その頃に書かれたことになり、そうすると、手紙の内容が全く違う意味に見えてきますね。
つまり、
「私は平家一門と袂を分かったので、院の元に帰降したいと思います。」
という現状と意思を知らせる為の手紙だったという可能性が出てきます。
……なんだか、そういう手紙にも見えてきますね。
(今回の漫画では上記の説を取り入れつつも、このお話は「資盛壇ノ浦入水説」で進めていきますので、漫画の資盛は結局屋島へ向かってます。)m(_ _)m
※参考 川合康氏「治承・寿永内乱期における和平の動向と平家物語」
『文化現象としての源平盛衰記』笠間書院、2015年
上横手雅敬氏「小松の公達について」『和歌山地方史の研究』安藤精一先生退官記念会、1987年
【謎2】建礼門院右京大夫へ送った手紙
『建礼門院右京大夫集』によれば、資盛は、ちょうど同時期(寿永2年の冬)に、恋人・建礼門院右京大夫に対しても手紙を送っています。
ちょうど、院への手紙と時期が重なっているので、資盛は何通か手紙をまとめて、都への使者に託したのかもしれません。
ただ、内容がですね、
●院に対しては「お別れして悲しくて仕方ありません。もう一度お会いしたいです」で、
●右京大夫に対しては「死んだものと思ってください」
ってのはどうなんだ。
(どっちが恋人なんだ、というツッコミは入ります。)
これについては、資盛の二面性を指摘する説や、『右京大夫集』の創作(虚構)説まであるのですが、
資盛-右京・強火勢としては、
「だって、恋人への手紙にはそう書くしかないでしょぉぉ、これは資盛の優しさなんだよぉぉ」
(ノД`)・゜・。
と思いたいところですね。
(^^;)
平貞能の出家&離脱
上記のように、資盛の動向については謎が多いのですが、
資盛の腹心の家人(乳母夫ともいわれる)平貞能が、屋島には同行せず、出家し平家から離脱したのは事実のようです。
肥後守平貞能は、平家の鎮西支配の中心的人物だったので、平家が大宰府に移動した際には、現地の豪族との調整に貞能の手腕が期待されていたはずです。
ところが、臼杵氏・戸次氏などの協力は得られず、緒方氏との交渉は成立せず、
平家が九州に居られなくなった時点で、貞能の立場はなくなってしまったのかもしれません。
また、以前の記事にもあったように、神器返還・和平交渉に前向きだったと思われる貞能は、交渉が進まない現状に見切りをつけたのかもしれません。
また『吉記』によれば、このとき、貞能だけでなく、多数の平家の家人が出家して西国に留まったといいます。
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ここでちょっと気になるのが、前回紹介した『源平盛衰記』の記述。
「寿永四年の初めに豊後国で資盛と清経が討たれた」という話が載っているのですが、
そこで「資盛入道」と資盛が既に出家していたことをうかがわせる描写がありました。
ちょっとびっくりする描写なのですが、
もしも、資盛が貞能と一緒に出家して九州に留まっていたのだとしたら、
(そして資盛は討たれて、貞能だけが東国に向かったのだとしたら)
あり得ない話ではないようにも思えてきますね。
真相はわかりませんが…。
平貞能と宇都宮朝綱
さて、九州で出家した貞能は、暫く身を隠していて、平家が滅亡した後に、ひょっこり関東に現れて、もと・平家の家人であった宇都宮朝綱に身を預けたといいます。
『長門本平家物語』
『長門本』では、貞能からの助命嘆願を受けて、
「さもありなん」と朝綱らを許した人の主語がありませんが(おそらく宗盛か知盛)、
このセリフは『覚一本』では知盛の言葉となっています。
『吾妻鏡』にも、似たような記事があります。
『吾妻鏡』では、朝綱たちが東国へ帰っていったのが、都落ちの時ではなく、頼朝が挙兵した時となっている点は『平家物語』とは少し異なりますが、
いずれ敵になるとわかっていたにも関わらず、朝綱たちを東国に返してあげた貞能と、
平家滅亡後にその恩に応えた朝綱。
源平の垣根を越えた、貞能と朝綱の絆が熱い話です。
※『吾妻鏡』寿永元年八月十三日条に、頼家誕生祝の御護刀を贈った御家人の一人として、朝綱の名があり、寿永元年八月以前には関東に戻っていたともいわれています。
※『源平盛衰記』では、貞能が朝綱を頼った理由として、朝綱が母方の親族だったとしています。(巻三十一)
※『源平盛衰記』では、貞能が朝綱を頼った理由として、朝綱が母方の親族だったとしています。(巻三十一)
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平貞能は、平家の家人の中では重鎮格であったにもかかわらず、処刑されることもなく、東国で天寿を全うしたようなんですよね。
かつて後白河院から、神器返還交渉の仲介役を期待されていた(詳しくはこちら)という話も含めて考えると、
東国の家人たちを故郷に帰してあげた平家
『長門本平家物語』や『吾妻鏡』では、朝綱たちを救ったのは平貞能でしたが、
『覚一本平家物語』では、この役が知盛と宗盛になっています。
『覚一本』の宗盛はとても優しいですね。
このとき、宇都宮朝綱と共に命を助けられ、東国に帰ることを許されたのは、畠山重能と小山田有重(畠山重能の弟)です。
畠山重能は、22年大河ドラマでも人気を博した畠山重忠の父親です。
重能自身は関東へ戻っても尚平家への義理を貫いたようなのですが、息子の重忠は頼朝に帰服し、一ノ谷の戦い等の平家追討戦でも活躍しました。
いずれ自分たちの首を絞めることになるかもしれないのは分かっていながら、東国出身の家人たちを故郷に返してあげた平家。
もう… 平家はそんな風に甘いから… 優しすぎるから…
(T-T)
という話なのですが、
だから平家が好きなんですよ。
ね、皆さんもそうでしょう。
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屋島に拠点を移した平家。
木曽義仲の派遣した軍が攻めてくる?
次回、水島の戦い。
更新は、6月末~7月初め頃の予定です。