大宰府落ち(後編) 平清経の入水【平維盛まんが23】 『平家物語』
<『平家物語』巻八より>
次回につづきます!
※漫画はえこぶんこが脚色しています。
登場人物
平資盛 たいらのすけもり平清盛の長男[重盛]の次男。維盛の弟。
平清経 たいらのきよつね
平清盛の長男[重盛]の三男。維盛の弟。
平有盛 たいらのありもり
平清盛の長男[重盛]の四男。維盛の弟。
平有盛 たいらのありもり
平清盛の長男[重盛]の四男。維盛の弟。
大宰府構想の頓挫
『平家物語』は、はるばる大宰府まで追いやられた平家をひたすら哀れに描くのですが、
都を落ちた場合に大宰府を拠点とするのは、当初からの既定路線だったと言われています。
ただそれは、後白河院や摂政・藤原基通を伴って、平家の正統性が保たれていれば、の話。
九州の情勢が思うようにはいかなかったからなのか、
寿永2年9月(日付は不明)、宗盛は後白河院に、恭順の意を示した手紙を送っています。
8月に備前児島で、時忠が院宣を拒否する手紙を送った時と比べたら、トーンダウンしていますね。(内乱の間、宗盛は必ずしも抗戦するつもりだったわけではないことが伺えます)
とはいえ実際には、この後も神器返還は行われていません。
この後、平家は重衡を中心として、義仲、行家の軍に連勝し勢力を盛り返していきます。平家が再び都を奪還する可能性も、まだ残されていました。
大宰府落ち
『平家物語』巻八は、緒方惟義の襲撃を前に、大宰府を棄てて東へと逃げる平家一行を、惨めに哀れに描きます。『平家物語』の泣かせどころの一つです。
この後『平家物語』では、平家一行は山鹿城に入ったものの、ここにも敵が攻めてくるというので、舟で柳ヶ浦へ移動。
さらにそこへも敵が攻めてくるというので、再び舟の上に逃げたといいます。
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この「柳ヶ浦(やなぎがうら)」とされる場所は、実は二箇所あります。
[1]現在の福岡県北九州市門司区
[2]現在の大分県宇佐市
●平家の移動ルートを考えると、[1]の方が地理的には妥当に見えます。
(漫画ではこちらを採用しました)
●一方で、[2]は、宇佐八幡宮に近いことから、清経の入水の逸話に関しては、こちらの柳ヶ浦と関係性があるかもしれません。
(※読み本系に見える清経と妻の物語は、宇佐参詣関連の逸話の一部。)
(※『屋代本平家物語』のように、平家の宇佐参詣を大宰府落ちの後に配置する本もあります。)
[2]の柳ヶ浦には、清経の墓があります。
平清経
平清経は、平重盛の三男。
兄弟の中で一番早く従五位上に叙される等、昇進の序盤は華々しかったものの、
鹿ケ谷事件で母方の伯父の成親が処刑されるなどの不遇もあり、
最終的に、兄たちが公卿(三位以上)にまで昇ったのに対し、清経は四位どまりでした。
とはいえ、
戦場の前線や政局の矢面に立たされ続けた兄たちの境遇が、果たして恵まれてたのかというと、何とも言えないところですが…。
清経の入水
『平家物語』巻八では、行く末を悲観した平清経は、月の夜に舟の上で朗詠した後、念仏を唱えて入水したといいます。
その時の清経の有名なセリフがあります。
『平家物語』によれば、清経は、もともと「何事も思ひいれたる人」(何事も思いつめる性格の人)だったそう。
真面目で繊細な青年のイメージが浮かびますね。
この漫画で清経が陰キャ(失礼)なのは、この一文が元ネタです。
一方、『建礼門院右京大夫集』には、恋人を乗り換えて元カノを泣かせている逸話もありますから、実際の清経は、他の平家公達と同じようにイケメンでモテたんでしょうね。
(※『建礼門院右京大夫集』75・76歌詞書)
(※『建礼門院右京大夫集』75・76歌詞書)
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ところで。
「延慶本」などの読み本系『平家物語』では、この入水の話の直前に、
清経の妻が、逢えない夫を思い出すのが辛いと言って、形見の髪を送り返してきたという逸話があります。(形見の髪についてはこちらの記事)
読み本系『平家物語』では、妻に髪を送り返されたショックも、清経の入水の一因になっています。
(話がややこしくなるので、漫画には描きませんでしたが)^^;
この清経と妻の物語は、世阿弥作の能『清経』に取り入れられています。
『源平盛衰記』の戦死説 & 清経の生存伝承
ところで『源平盛衰記』には、柳ヶ浦での入水とは全く異なる、意外な清経の最期が描かれています。
屋島の戦いの直前の話です。
……なんじゃこりゃ
(@_@)
あまり聞いたことない話のオンパレードでびっくりしますね。
▽びっくりポイント▽
■屋島の戦いの直前、このとき資盛と清経は豊後にいたの?
■「資盛入道」ってことは、資盛既に出家してるの?
■そして、戦う清経かっこいいな!(覚一本とキャラちゃうやん)
『源平盛衰記』は、他の『平家物語』諸本と同様に、柳ヶ浦での清経の入水・壇ノ浦での資盛の入水という通説を載せながらも、
資盛と清経が豊後の住人に討たれて、首を源氏に差し出される場面を描いているのです。
(つまり作中で、二回〇んでいる)
(そもそも読み本系の『平家物語』は、覚一本ほど作中で内容の整合性が取れているわけでもなく、さらに『源平盛衰記』はよく複数の逸話を併記するので、こういう矛盾は別に珍しいことではないのですが)
寿永四年の時点で資盛と清経が豊後にいた、という描写があることは気になります。
前回紹介した『玉葉』の記述と併せて考えると、
資盛と清経が投降し、豊後に留まっていた(そして範頼が豊後に入った時に、討たれて首を差し出された)という風聞も、存在していたのだろう、という想像ができますね。
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また、これは民間伝承の話になりますが、平清経にも生存伝説があります。
なんと、「緒方一族の娘と結婚して、九州に土着した」というものなんですね。
多くの落人伝承がそうであるように、この伝承の系譜も江戸時代より前には遡れず、フィクションと考えられるようなのですが、
緒方に投降という話なら可能性としてはありえなくもない、と思えますよね。
前回記事にあったように、兄の資盛に投降説があるのなら、
清経が(入水と偽って)投降したという話が存在していたとしても、そんなに不自然ではないかもしれません。
※参考文献 松永伍一氏『平家伝説』(中公新書)中央公論社
どうする資盛?
さて、
この後の資盛の動向については、大きく分けて二つの説に分かれます。
【1】平家一門とは袂を分かち、豊後で投降したという説。
(『玉葉』寿永3年2月19日条)
(『醍醐雑事記』にある壇ノ浦戦死者の中に資盛の名がない)
【2】平家一門と行動をともにし、壇ノ浦で入水したという説。
(『平家物語』『建礼門院右京大夫集』『吾妻鏡』)
前回記事にあったように、史学分野では、『玉葉』に基づく【1】豊後投降説も有力視されています。
一方、『平家物語』が語る【2】壇ノ浦入水説にも根強い支持があります。
………どうする、資盛。
早速ネタバレをしてしまうと、この漫画では【2】壇ノ浦入水説でお話を進めていきます。
「古典を漫画に」というテーマですので、古典文学作品の登場人物としての平資盛を、まだまだ描いていきたいと思うからです。
【本音】
ここで資盛がリタイアしちゃうと、アレもコレも描けなくなるやん…
アレもコレも描きたいんや……(^^;)
勿論、別説や伝承については今後も解説で紹介していきます。
(^^)
というわけで、この二つのルートの分岐点で、今回の漫画を切りました。
九州の時点で投降する道もあったんだなぁ…
(´-`*)
と思いを馳せながら。
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大宰府を落ちた平家は、讃岐屋島へ。
ここから、平家の巻き返しがはじまります。

