三草山の戦い!(前編)【平維盛まんが28】|『平家物語』『吾妻鏡』
<『平家物語』巻九、『玉葉』寿永3年正月26日~2月8日条、『吾妻鏡』元暦元年(寿永3年)2月20日条より>
※漫画はえこぶんこが脚色しています。
登場人物
平資盛 たいらのすけもり平清盛の長男[重盛]の次男。
平有盛 たいらのありもり
平清盛の長男[重盛]の四男。資盛の弟。
平師盛 たいらのもろもり
平清盛の長男[重盛]の五男。資盛の弟。
平清盛の長男[重盛]の五男。資盛の弟。
平忠房 たいらのただふさ
平清盛の長男[重盛]の六男。資盛の弟。
平清盛の長男[重盛]の六男。資盛の弟。
和平か追討か。掌を返すが如し。
寿永3年正月。
福原に集まった平家の勢力は数万とも噂され、二~三千騎にすぎない官軍(鎌倉軍)が簡単に追討できる相手ではなかった為、朝廷内にも和平を望む声が一定数ありました。
九条兼実も、三種の神器の保全を理由に、和平を主張していました。
(『玉葉』寿永3年正月26日条)
こうした中、静賢(静憲)法印(信西の子)を使者として、平家に和平の申し出をするという話が浮上します。
和平ですか、いいですね!
( ^^)
と、思いきや、
その直後にやっぱり、和平の使者の話は中止され、追討の方針に代わったといいます。
…やっぱり追討か。
(T_T)
『玉葉』によれば、三人の院近臣(藤原朝方、藤原朝信、平親宗)が後白河院に働きかけたせいで、やっぱり追討の方針に変更されてしまったとのこと。
和平派の兼実は、この三人を名指しで、
「小人近君、国家擾、誠哉此言」
(器の小さい人物が君主に近づくと国家が乱れる、というのはホンマやな)
と批判しています。
親宗は、平家に縁がありながらも、一貫して後白河院側の立場にいたのですね。
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こうして、正月26日には、源頼朝に対し「平家追討の宣旨」が出され、範頼・義経率いる官軍が福原に向けて進軍することになるのですが、
なぜかその後もまだ、静賢法印に対し、和平の使者となるように要請があったといいます。
やっぱり和平なん?
どっちなん!!!???
(@_@;)
静賢法印は、「平氏追討軍が既に都を進発しているのに、自分が和平の使者として派遣されるのは道理にあわない」と言って、この役目を断ったといいます。
九条兼実も、
「所申尤有理歟、凡近日之儀如反掌」
(静賢法印の申すところは道理である。だいたい、近日の成り行きは掌を返すようである)
と憤っています。(正月二十九日条)
「所申尤有理歟、凡近日之儀如反掌」
(静賢法印の申すところは道理である。だいたい、近日の成り行きは掌を返すようである)
と憤っています。(正月二十九日条)
二転三転したものの、結局は、後白河院と院近臣の意思により、平家追討が実行されることになります。
※参考文献:樋口健太郎氏『九条兼実 貴族がみた『平家物語』と内乱の時代』(戎光祥出版、2018年)
平家追討軍、迫る
『玉葉』によれば、京を出た義経軍は、途中で暫く大江山に留まっていたといいます。
(寿永3年2月2日条)
この理由には、和平か追討かの朝廷の結論が出るのを待っていた、この間に兵を集めていた、等の説があります。
数日後、義経は再び進軍を再開しました。
こうして、丹波路を進む義経の進軍ルートにある三草山が、一ノ谷の戦いの前哨戦の舞台となったのです。
三草山の護り
平家側では、資盛率いる軍(『平家物語』では三千騎、『吾妻鏡』では七千騎)を、三草山に派遣します。
この「三草山」の場所については、二つの説があります。
【1】播磨と丹波の国境(『平家物語』)…現兵庫県加東市
【2】摂津国の能勢と猪名川の境(『吾妻鏡』)…現兵庫県川辺郡猪名川町
【1】の三草山は、軍事上の要害だったこと、この辺りに平家の荘園が多くあったと見られること、『玉葉』に「義経が先ず丹波城を落とし」とあること等から、
こちらが有力だと考えられています。
(【2】の三草山にも源平に関する地名が残っています)
※参考文献 村上美登志氏「延慶本『平家物語』「三草山・一ノ谷合戦譚」の再吟味」『中世文学の諸相とその時代』和泉書院、1996年
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『平家物語』(覚一本・百二十句本)では、三草山の護りについたのは、
大将軍…
平資盛(重盛次男)・平有盛(重盛四男)・平師盛(重盛五男)・平忠房(重盛六男)
侍大将…
平内兵衛清家(系譜未詳)・海老次郎盛方(美作国英多郡江見の住人)
となっています。
三草山の護りは、小松家に任されたのですね。
重盛六男・平忠房
ところで実は、「延慶本」「長門本」「源平盛衰記」「源平闘諍録」「四部合戦状本」等、読み本系の諸本には、三草山の戦いに、六男・忠房の名はありません。
資盛・有盛・師盛の三人だけなのです。
おそらくは、その不自然さに、覚一本などは後から忠房の名を追加したんだと思われます。
では、なぜ初期の『平家物語』には、三草山に忠房の名がなかったのだろう?
…という話なのですが、
忠房はこのとき、資盛たちとではなく、維盛と行動をともにしていた可能性があるのです。(え?)
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平忠房は、後にわりと大きなイベントを起こす重要人物です。
忠房は、後に屋島を去って、紀伊の湯浅氏を頼り、平家家人の残党に担ぎ上げられて、蜂起を起こすことになります。
(『平家物語』巻十二。湯浅氏に匿われていただけで、蜂起は史実ではないという説もあり)
屋島を去っていること、紀伊を目指していること、湯浅氏との関連など、維盛との共通点が多いことから、
おそらく忠房は、維盛の離脱の時、共に屋島を去ったのではないか、と考えられているのです。
……とすれば、忠房は、一ノ谷前夜の時点ですでに維盛と行動をともにしていて、三草山の戦いには参加していない可能性も出てきますね。
もしそうならば、『平家物語』の古い諸本が、三草山の布陣に忠房の名を記していないことにも符合しますね。
(漫画では、覚一本・百二十句本に合わせて三草山に参戦しています。)
三草山の戦い
『平家物語』によれば2月4日。『吾妻鏡』によれば2月5日、
義経軍の奇襲により、三草山の戦いが始まりました。
(漫画では2月5日にしています)
『覚一本平家物語』では、平家軍はすっかり油断して寝てしまっているのですが、『源平闘諍録』では、夜半までは一応、夜襲を警戒していたことになっています。
■覚一本
倶利伽羅峠の時も、すっかり油断していた(覚一本)と、一応夜襲を警戒して寝ていなかった(源平盛衰記)という違いがありましたね。(こちらの記事)
平家をやたら油断させたがる、覚一本…。
(一一;)
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一方その頃、義経軍は、夜道を爆速で進軍する為、「大だい松(おおだいまつ)」(=大松明、大続松)を使ったことになっています。
「大松明」とは、夜の明りを取る為に、周辺の民家などに火をつける戦法のこと。
( ゚Д゚)!!!
義経… 手段選ばねぇな…
と言いたくなる描写ですが、
「大松明」といえば、平家も南都焼き討ちの時に使っていますし、
義経が「例の」と言っているところからも、当時としては珍しくない戦法だったようです。
(但し、そこに暮らす庶民にとっては大迷惑!)
(>_<)
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この義経の大松明の逸話は、「覚一本」「百ニ十句本」『源平盛衰記』『源平闘諍録』等に見え、わりと有名なのですが、話の中で矛盾もある為、史実ではないとも考えられています。
というのも、こっそり近づいて寝込みを急襲するからこそ、夜襲の意味があるのであって、
その前にド派手に火事を起こしていたら、さすがに平家軍も気づくからです。
なお、「延慶本」「長門本」には、大松明の話自体がありません。
(漫画では、大松明の話は書きましたが、平家も源氏が近づいていることに気付いたことにしています。)
院からの和平の手紙?
さて一方、福原の本陣では。
2月6日(一ノ谷の戦いの前日)、
『吾妻鏡』によれば、都から意外な手紙が届いていたといいます。
※『吾妻鏡』では、この手紙の差出人は「修理権大夫」。修理大夫とすれば、前出の院近臣・藤原朝信。
なんと、和平をもちかける手紙なんですね。
え……どういうこと?!
(@_@;)
やっぱり和平はあるのか、続きは次回!
(結果は、わかってるんですけどね)
(ーー;)
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次回、「三草山の戦い!」(後編)
更新は、年末年始を挟んで、2024年1月中旬の予定です。
本年も、当ブログをご訪問いただき、ありがとうございました。
皆様、よいお年をお迎えください。
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