平家都落ち! 前編(資盛と後白河院)【平維盛まんが 16】『愚管抄』

『平家物語』『愚管抄』平資盛の都落ちと後白河

ついに平家は都を落ちる!資盛は、比叡山に逃れた後白河院と連絡を取ろうとするが…

<『愚管抄』巻第五より> 

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後白河と藤原基通、近衛基通の関係
『平家物語』平資盛と後白河院の関係
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※漫画はえこぶんこが脚色しています。  

◆解説目次◆ ・登場人物
・平家都落ち
・藤原基通と後白河院
・揺れる小松家
・資盛、後白河院に見捨てられる?
・平頼盛と八条院
 

登場人物

後白河法皇 ごしらかわほうおう
第77代天皇。

平資盛 たいらのすけもり
平清盛の長男[重盛]の次男。維盛の弟。

平頼盛 たいらのよりもり
平忠盛の五男。清盛の弟。

平家都落ち

寿永2年(1183)7月25日、平家は、安徳天皇守貞親王(高倉院第二皇子)、三種の神器を伴って、都落ちを決行しました。

後世の我々は、この後の平家の悲劇を知っているので、「都落ち」という言葉に悲愴な響きを受け取ってしまいますが、
当初の計画では、あくまでも戦略的な移動であって、平家に権力を放棄する意思はありませんでした。


●軍事的な話

攻めやすい地形の平安京を防衛するには、四方に兵力を分散せざるを得ません。それが現実的ではないことは、前回記事の状況からもわかります。

また、北陸近江摂津河尻を敵に奪われてしまった状況では、都に留まっていてもいずれ物資や食料が枯渇してしまうことが明らかでした。
中国・四国・九州は、まだ平家の勢力圏であり、西国で体制を立て直すのは、この時点では妥当な選択肢だったのです。


●政治的な話

当初の計画では、後白河院摂政・藤原基通(近衛基通)も西国に連れていく予定でした。これが成功していれば、権力の中枢ごと移動することができ、平家政権の正統性は維持できていたのです。

藤原基通は、平清盛の娘・完子の婿であり、清盛の後押しを受けて、関白・摂政になった人物です。詳しくはこちらの記事を参照ください。)


ところが実際には、都落ちに連行されることを事前に察知した後白河院は、当日になって法住寺殿を脱出比叡山に身を寄せます。
密かに院と内通していた摂政・基通も、都落ちの道中で引き返し知足院に逃げ込みました。

この二人に逃げられてしまったことは致命的なミスで、都落ちを境に、昨日まで官軍であった平家は一転、賊軍として追われる立場に成り下がってしまうのです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


後白河院の逐電を事前に防ぐこともできず、身内であるはずの基通に裏切られるのを予想もできなかったことは、宗盛の認識の甘さを責められる案件です。

ただ、かつて後白河院を幽閉までした清盛とは違って、院には恭順姿勢をとっていて、清盛ほどの強い権力を有しているわけではなかった宗盛の立場では、院を強引に拉致するわけにはいかなかったという説もあります。(それを強行すれば、他の公卿からの反感を買うことが必至だった為)



藤原基通と後白河院

都落ちの土壇場で、平家を切り捨てた後白河院摂政・藤原基通
『玉葉』によれば、二人は事前に都落ちの情報を共有し、逃げる算段を立てていたようです。

この二人の関係もなかなかのものがありますので、『玉葉』の記述をどうぞ。

去月廿日比、前内府、及重衡等密議云、奉具法皇、可赴海西、若又可参住法皇宮云々、聞如此之評定、以女房(故邦綱卿愛物、白川殿女房冷泉局)密告法皇、

先月二十日頃、前内府(宗盛)と重衡らが密議をしていうには、法皇を連れて西海に赴くか、もしくは法住寺殿に参住するという。摂政(基通)は、白河殿(平盛子) の女房・冷泉局を遣わせて、(平家の密議の内容を)法皇に密告した。

『玉葉』 寿永二年八月二日条 

又聞、摂政被鍾愛法皇事、非昨今之事、御逃去以前、先五六日密参以女房冷泉局為媒云々、自去七月御八講之比、有御艶気、七月廿日比、被遂御本意、

摂政が法皇から鍾愛を受けたのは昨今のことでなく、御逃亡以前に五六日密かに参り、(冷泉局が媒介役となって)、七月の御八講の頃より艶気があって、七月二十日頃、御本意を遂げられた。

『玉葉』 寿永二年八月十八日条


『玉葉』によれば、後白河院は、藤原基通に対し愛念を抱いていて、
それを承知の上で基通は、後白河院に都落ちに関する平家の「密議」の内容を密告
その時後白河院は、基通と「御本意」を遂げられたらしい。


…………どゆこと?

まぁ下世話な言い方になりますが、つまり基通は、後白河院からの「鍾愛」を利用し、自分の身を院に差し出して、平家の都落ちの密議の情報も売って、保身を図ったというわけですね。

(後白河院の男色相手としては、資盛もよくネタにされるのですが、一級史料にここまではっきり書かれているという点では、こっちの方が大概だと思います。)


手段はどうであれ、結果的に近衛家が平家の没落に巻き込まれるのを回避したという点で、この時の基通の機転と行動力はなかなかのものです。

とはいえこれが事実なら、さすがに褒められた手段ではない為、兼実も「君臣合体の儀、これをもって至極」と批判しています。(わりと有名な発言)


ただ兼実は、平家に担ぎ上げられて関白・摂政になったものの実力が伴わない基通に、もともといい感情はもっていません。基通に対しより辛辣な筆致になっている点は割り引かないといけないかもしれません。

(なお、摂政といっても基通はこの時、まだ24歳の若者です。実際かわいかったのかもしれません。資盛とは同世代です。)

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

以上の話は『玉葉』に見えるのですが、『平家物語』にはそんな話は出てきません。

『平家物語』では、都を落ちる道中、基通の牛車の前に、春日社(藤原氏の氏社)の「春日」の文字をまとった不思議な童子があらわれ、それを「藤原氏の将来の為にここは引き返すべきだ」という啓示だと受け取った基通は、都へ引き返した。

というメルヘンな理由になっています。



揺れる小松家

都落ちを機に、後白河院と平家が決別したことにより、平家の中でも院に近かった人々は、身の振り方に逡巡することになります。

『吉記』には、小松家の公達が院に帰降するのではないかという噂があったことが書かれています。

新三位中将資盛卿、率舎兄維盛卿及舎弟等云々、今日余人不聞、及肥後守貞能率八百余騎軍兵、自山崎辺引帰、入住蓮華王院、相逢源氏可合戦云々、或説、可然卿相等各可虜之由風聞、洛中重騒動、皆悉逃走、或説、小松内府子息等可帰降之由云々

新三位中将資盛卿(兄維盛や弟達を引き連れ)、及び肥後守貞能は八百余騎の軍兵を引き連れて、山崎より引き返し蓮華王院に入った。これは、源氏と合戦するのだとか、しかるべき公卿を都落ちに連行するのだとかという噂が流れ、洛中は騒然となって、みんな逃げ去った。あるいは、小松内府(重盛)の子息たちは、院のもとに帰降するのだとも言われた。
『吉記』寿永二年七月二十五日条


7月25日の時点で、小松家は、先に都を落ちた平家一行とは行動を別にしていたことがわかります。

前回記事にあったように、直前まで資盛は、後白河院の指示で出陣していました。
さらに、都への帰還の指示も、宗盛からではなく後白河院からもらっていました。

なので当然、院の真意を伺いたく法住寺殿へ向かったのでしょうが、当時から院への帰降の噂が立っていたくらい、そのまま小松家が平家一門と袂を分かつ可能性は決して低くはなかったのですね。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


ところで覚一本『平家物語』のストーリーでは、小松家が平家一行に遅れた理由は、あくまでも維盛が妻子との別れを惜しんだ為であって、帰降の意思があったとまでは書かれていません。

ですが、『平家物語』の中にも、宗盛から裏切りを疑われる描写は度々あり、小松家と本家の間に溝があったことは感じられます。

「延慶本」「源平盛衰記」などの読み本系の『平家物語』では、宗盛から小松家に直接都落ちの指示は来ていなかったとされています。(だから出発が遅れたのだと)

「延慶本」の内容が真実かはわかりませんが、小松家の裏切りを疑う以前に、そもそも本家から小松家に対する扱いもかなり冷めたものを感じますね。


資盛、後白河院に見捨てられる?


『吉記』にも、7月25日、資盛が蓮華王院(法住寺殿の一部。現在の三十三間堂)に入ったという話が書かれていましたが、『愚管抄』には、この時のより詳しい事情が書かれています。(今回の漫画の場面です)


原文をどうぞ。
又コノ中ニ三位中将資盛ハ院ノオボエシテサカリニ候ケレバ、御気色ウカガハント思ケリ。コノ二人鳥羽ヨリ打カヘリ法住寺殿ニ入リ居ケレバ、又京中地ヲカヘシテアリケルガ、山ヘ二人ナガラ事由ヲ申タリケレバ、頼盛ニハ、「サ聞食ツ。日比ヨリサ思食キ。忍テ八條院邊二候へ」ト御返事承リニケリ。
(中略)
資盛ハ申イルル者モナクテ、御返事ヲダニ聞カザリケレバ、又落テアイグシテケリ。


三位中将資盛は、その頃法皇にかわいがられて勢いが盛んだったので、院の御意向を伺おうと思った。この二人(頼盛と資盛)は、鳥羽よりとって返し、法住寺殿に入った。京中は地がひっくり返ったような有様だったが、二人が比叡山に事の次第を申し上げたところ、頼盛には、
「日頃よりそうお思いになられていました。人目を忍んで、八条院の辺りに身を寄せるように」
とのお返事を承った。
一方、資盛には、取りつぐ人もなくて、御返事すらいただけなかったので、一門とともに都を落ちていった。

『愚管抄』 巻第五「安徳」 


資盛が、頼盛とともに法住寺殿に入り、比叡山の後白河院と連絡を取ろうと試みたことが書かれています。
(この時行動を共にしている平頼盛と資盛の関係は、前回の記事をご参照ください。)


ところが、後白河院から頼盛には「八条院に身を寄せるように」との指示があったものの、資盛には取り次ぐ人もなく、返事すらもらえなかったといいます。

『愚管抄』の記事自体は簡潔なので、たまたま資盛には取り次ぐ人がいなかったという説も、後白河院は故意に資盛には返事をしなかったという説もどちらもあります。いずれにしても、これ以降、後白河院のもとに戻るという資盛の望みは二度と叶うことはありませんでした。

前回の記事にあったように、資盛は院の近習として重用されると同時に、彼が保有する軍事力をもって後白河院に貢献していた面もありますが、院が平家と決別した時点で資盛の親衛軍としての役目は不要となります。

また、たとえ後白河院が資盛個人の人柄を気に入っていたのだとしても、前述のように、この頃、後白河院は愛する藤原基通と御本意を遂げられているのですから、資盛への個人的な愛情をあてにすることはできなかったかもしれませんね。

(もしもそうなら、切なすぎるぜ、資盛)
平資盛と平有盛と平清経。平家物語。愚管抄。建礼門院右京大夫集。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

資盛は、こうして不完全燃焼な形で、不本意に都を落ちる羽目になったので、その後も、院と連絡を取ることはあきらめていなかったとみえます。

今後、大宰府で緒方惟義との交渉にあたったり、院に手紙を出したりと、西国の平家一門の中にあっても、いまだ和平や帰降を模索しているような資盛の姿が見えるのです。
(この辺は後日漫画で)


平頼盛と八条院

ではなぜ平頼盛だけは、帰降することができたのでしょう。

これはおそらく、後白河院の尽力を必要とせずとも、頼盛自身が助けてもらえるだけの人脈を既に有していたからだと思われます。

頼盛は、八条院(暲子内親王)の別当を勤め、また頼盛の妻の母は八条院の乳母宰相の局であって、頼盛は八条院から信頼を得ていました。
また、かつて頼盛の母・池禅尼が頼朝の助命に一役買ったことから、頼朝が頼盛のことを決して疎かには扱わないだろうこともわかっていたと思います。

長年にわたって築いてきた院や八条院との絆が功を奏し、帰降に成功した頼盛ですが、結果的に平家一門では頼盛だけが離反したので、「平家唯一の裏切り者」の汚名を着ることとなってしまいました。

とはいえ、そもそも、宗盛からの頼盛に対する扱いもぞんざいなものがあって、
『愚管抄』によれば、山科に出兵していた頼盛に対し、宗盛から都落ちに関する連絡はなかったといいます。

資盛同様、頼盛はこの時後白河院の指揮下にあったのだという説や、
また、都落ち当時、宗盛は「心モウセテミエケレ」(茫然自失のありさま)だったというので、(『愚管抄』)
ただ単純な連絡ミスだったという説もあります。(それはそれでどうかと思うけど)


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

ただ、都落ちの時点では、この後平家一門があそこまで悲劇的な最期を迎えなければならないことまでは、頼盛も予想していなかったと思います。
(実際、和平や神器返還のチャンスは何回かあったので)

兄弟や甥たちが皆、悉く悲惨な最期を強いられたのを受けて、頼盛は、生き残ってしまった自分自身を責めていたかもしれません。
頼朝の厚遇を受けながらも頼盛は、平家滅亡の直後、文治元年(1185)五月には出家し、翌年には、他界してしまいます。

その事実の中に頼盛の心の痛みを感じてしまい、彼も決して裏切り者ではないと思えるのですね。

やっぱり、「平家は一蓮托生」なのです。

(これは‘12年大河ドラマにおける頼盛の台詞です。)


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



次回、平家都落ちー中編【寿永二年 維盛二十五歳】
これまで側で維盛を支えてきた乳母夫・藤原忠清が、離脱?


次回更新は、八月中旬の予定です。


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※参考文献/『愚管抄』日本古典文学大系、岩波書店/『玉葉』国書刊行会/『山槐記』『吉記』増補史料大成、臨川書店/『平家物語』新日本古典文学大系、岩波書店/『平家物語』新編日本古典文学全集、小学館/『平家物語図典』小学館/冨倉徳次郎氏『平家物語全注釈』角川書店/杉本圭三郎氏『平家物語全訳注』講談社/川合康氏『源平の内乱と公武政権』吉川弘文館/高橋昌明氏『平家の群像』岩波書店 / 永井晋氏『平氏が語る源平争乱』吉川弘文館/ →発行年等、参考文献の詳細はこちら

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