墨俣川の戦い【平維盛まんが 11】 維盛の軍は強かった? 『玉葉』『吉記』

近江を制圧し、美濃に入った平家。 その矢先、追討使を牽引してきた平知盛が病に倒れてしまう。 <『玉葉』『吉記』治承五年三月十五日条より> ※漫画はえこぶんこが脚色しています。 ◆解説目次◆ ・登場人物 ・高倉上皇の崩御と惣官 ・清盛の他界 ・墨俣川の戦い ・知盛なのか、重衡・維盛なのか? 登場人物 平維盛 たいらのこれもり 平清盛の長男[重盛]の長男。 平重衡 たいらのしげひら 平清盛の五男。 高倉上皇の崩御と惣官 治承5年1月14日、 高倉上皇 が、六波羅池殿にて崩御しました。 (享年21歳) 1月19日、高倉上皇の生前の決定という名目で、 平宗盛 が、 五畿内および伊賀・伊勢・近江・丹波の九ヶ国の惣官 に就任しました。 惣官 (総官)とは、従来の知行国主の枠を越えて、兵士や兵糧米の徴収などを可能にする、広域の軍事指揮官を意味します。 これにより平家は、大規模な反乱にも対処できるような、九か国に合法的に指令を出せる地位を確立しました。 清盛の他界 治承5年2月、 源行家 の反乱軍が、尾張に進出したという情報がもたらされると、惣官・宗盛のもとで、追討の準備が進められました。 当初は、宗盛自らが追討使となって出陣する予定でしたが、 2月27日、清盛が突然の熱病に倒れたことで、宗盛の出陣は中止されます。 発熱からまもない閏2月4日に、清盛は他界してしまいます。(享年六十四) 以下は、有名な清盛の遺言です。 ■平家物語 「われいかにもなりなん後は、堂塔をもたて孝養をもすべからず。やがて打手をつかは し 、頼朝が首をはねて、わが墓のまへにかくべし。それぞ孝養にてあらんずる」 『平家物語』(覚一本)巻六 ■玉葉 「我子孫、一人生き残る者と雖も、骸を頼朝の前に曝す可し」 『玉葉』治承五年八月一日条 ■吾妻鏡 「子孫は偏に東国帰住の計を営むべし」 『吾妻鏡』治承五年閏二月四日条 若干表現は異なりますが、どれも、清盛が東国の状況を何より危惧していたことを伝えています。 一番有名なのは、『平家物語』の 「頼朝の首をはねて、自分の墓の前に供えよ」 というやつですが、『玉葉』では、もっと過激な表現になっています。 「我...